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ちまちま書いてあげてこうと思います。
鬼は目を覚ました。ゆっくりと体を起こす。襖が朝日を吸い込み、白く輝いている。今日も晴れらしい。布団をしまってから襖を開ける。目の前には庭が広がる。庭といっても手入れがされているわけではない。所構わず草が生い茂り、花は少しでも日の光を浴びようと葉を広げる。鬼が手入れを怠けているわけではない。ここの草木が鬼に触らせようとしないのだ。
色とりどりの花達はざわざわと枝葉を伸ばし、お互いを牽制し合っている。気に入っていた桜の木がなくなっていた。鬼は小さくため息をついた。夜の内に何かに飲み込まれたのだろう。根本の近くに咲いていた向日葵だろうか。いや、少し離れた所にあった金木犀かもしれない。あの金木犀はやたら桜の木にちょっかいを出していた。思えばあの桜の木も、最近花のつきがよくなかったように思う。あの場所に桜が現れてから随分と時間も経っていた。三年程だろうか。この庭でそれだけ長い間残っているというのはかなりのものだ。また近い内に桜があった場所に何かが現れるはずだ。今度はどんな植物が芽を出すのだろう。何か艶やかな花をつける、大きな木だといいなと鬼は思った。
日が高く昇り、容赦なく地を照り付ける。鬼は納屋から釣竿と大きなたらいを引っ張り出してきた。今日は久しぶりに魚を食いたいと思ったからだ。いつもは畑で育てた野菜や米、外の森で獲ったウサギなどの獣を食べていた。
庭の間を縫うようにして伸びた細い道を歩く。脇に生えた草木達が、鬼に向かって枝葉を伸ばすが道にまでは入ってこれない。この道は外へと通じている。つい最近、やっと完成したものだ。
今までは外へ出ることが辛くて仕方がなかった。草木を掻き分けて進むしかなく、外へ出る頃には体中に生傷ができた。しかし魚や動物などの食料を得るには庭の外へ出るしかなかった。なるべく出る回数を減らし、出た時に大目に獲物を持ち帰るようにはしていたが、持てる量には限度があったし、それ以前に獲物を捕らえられない事も珍しくなかった。草木につつき回され、生傷を作りながら庭を抜けたにも関わらず獲物が獲れないというのは辛いものがあった。
外へ通じる道を作ろうと思ったのが5年程前の事だ。鉈を振って草木を刈り、一心不乱に道を踏み固めてゆくのだ。しかしそれが一筋縄ではいかなかった。せっかく草木をどかしても次の日にはまた生い茂っていた。またそれを刈って道を踏み固める。また草木が道を隠しそれを刈り取る。毎日ひたすら同じことを繰り返した。ここでの生活は単調だったが、この時ほど、同じ日を繰り返しているのではないかと思った事はなかった。
道は少しずつ少しずつ伸びていった。紫陽花の葉で遊ぶカタツムリの歩みよりも遅かったが、それでも少しずつ伸びていった。薄茶色の地面が露出する部分がだんだんと長くなり、次第に周りの草木のざわめきがなくなっていき、ついに庭と外を繋げた。外の葉が色づき、山が燃えるような緋色に包まれていた頃だった。
踏み固められた地面というのは境目がはっきりしている。今鬼が住んでいる家が建つ地面も、家の裏にある畑や田も、道と同じようにして切り開かれた場所だ。鬼の先代達が体中に体中に傷を負いながら、踏み固めたものだ。先代達に比べれば小さな功績だが、それでも自分の後に続く者の役にも立つと思うと鬼は嬉しかった。
庭を抜けると、むせ返るような新芽の香りに充ちた初夏の山だった。四季が丸めた糸のように絡まった庭にいると、外の季節が分からなくなる。
山を少し下った所に小さな泉がある。鬼の背よりもほんの少しだけ高い場所から水が流れ込んできて、涼しげな水音をたてている。この辺りの川の水源の一つだ。
鬼は虫やミミズを捕まえてくると、手頃な岩に腰かけた。釣り針にミミズを刺して糸を垂らす。
数匹釣り上げた頃、がさりと後ろから草が揺れる音がした。振り返って鬼は驚いた。人だ。薄紫の布を腰に巻きつけた男だった。その布から細い脚が伸び、体も骨と皮しかないようだった。歳は30くらいだろうか。手には竹竿と魚篭を持っている。
男がぎょろりとした目を更に広げてまじまじと鬼を見た。
「こりゃ驚いた。鬼か」
鬼は何も言うことができない。男がにっと笑って近づいてきた。
「しかも女の鬼とは。珍しいこともあるもんだ」
鬼が小さな声で言った。
「驚かないのか」
「驚いたさ。でもまあそれだけだな。一々逃げることもないだろう。こんな骨と皮だけの男を食うほど飢えてもないようだし」
ちらりとたらいの中の魚を見ながら男が言った。
男は鬼とは対岸の位置に腰を下ろすと糸を垂らした。
「鬼はここにはよく来るのか」
「いいや」
「そうか。ここは村では俺だけが知ってる穴場でな。若い頃に山で迷った時に偶然見つけた。すれてないから面白いように釣れるんだ。俺以外に知ってる奴がいるとはな。近くに家でもあるのか」
鬼が頷いた。男は小さくそうかそうかと呟いた。
「しかしこの辺りの村とはいえここはかなり歩くだろう。近くの川ではいけないのか?」
鬼が聞くと男は小さくため息をついた。
「今年はどういうわけか川に魚が少なくてな……。作物もだめだった。少しでも足しになればと思ってここまで足を延ばしたんだ。もう歳だな。昔みたいに軽々とここまで来ることは出来なかったよ」
「他の村人にここの事は教えないのか。皆辛いんだろう」
男の顔に影が落ちた。
「……教えてやれるものなら教えてやりたい。だが教えれば皆こぞってここの魚を取りつくすだろう。そうなると困る。他の者には申し訳ないがこの場所は教えられない」
「……そうか」
しばらくは無言の時間が続いた。男が不意にポツリと言った。
「昔俺のじいさんに話を聞いたことがあるよ。この山には鬼が住んでいると。子供の頃だったから怖くてな。山で迷ったら鬼に食われるんじゃないかと思って、おちおち遊びにも行けんかった」
「……以前は人とも交流があったから」
「らしいなぁ。俺のじいさんのじいさんはじいさんから鬼の家に行った話を聞かされたそうだ。どうして交流がなくなっちまったんだ?」
「詳しい事は分からない。だが私の二つか三つ前の代の時、人が何かひどい事をしたらしい。それ以来人が来ることはなくなったそうだ」
「お前は人を憎みはしていないのか」
鬼は肩を竦めた。
「私自身が何かされたわけではないから……。ただ進んで関わろうとは思わない。人は愚かだ。同じ過ちを平気で繰り返す」
「耳の痛い話だ」
男が困ったように笑った。
「なあ、しかしもう今俺と関わってしまったわけだろう。どうだ、俺が今から鬼の家に行くことは出来ないのか」
鬼は頭を振った。
「無理だろう。人があそこに行くのには特別な術がいる」
「そうか……それ以外に方法はないのか?」
「……偶然迷い込むこともあるかもしれない。けど狙って出来るものではない。後は一度庭に入ったものと一緒なら来れる」
男はそうかと呟くと、肩を落としてため息をついた。
男がよっと立ち上がった。魚篭を掴み竹竿を肩にかける。
「ありがとよ。お前と話せて楽しかった。また逢えたら色々と話を聞かせてくれよ」
男はまた鬼の後ろの森の方に歩いていった。
「あ、最後に一つ聞きたいんだが」
鬼のすぐ後ろあたりで男が言った。鬼は食いついた魚と格闘していた。かなりの大物のようだ。体ごと泉に引っ張られそうになる。
「鬼がいる場所ってのは四季がなくて、年がら年中花が咲いたり作物が育ったりしてるってのは本当か?」
「四季がないと、いうわけじゃない。まあ花は、いつでも咲くし作物も、育つ」
四苦八苦しながら鬼が答えると、男が小さくそうかと呟いた。
「……そうか。ならお前は飢えというものとは無縁なのか。羨ましい限りだ」
がさりと後ろで草が揺れる音がした。鬼はなんとか魚を釣り上げ振り返る。そこにはもうさっきの男の姿はなかった。