名と給金を奪われ追放された会計令嬢は、三度目の帳簿で辺境伯に見つけ出される
「痛っ」
紙を切られただけなのに、指まで切られた気がした。
兄のディーンは、私の帳簿から署名の部分を小刀で四角く抜いた。次に給金欄へ定規を当て、赤い線を一本引く。私の三年分が、たいへん姿勢よく消えた。
「女の走り書きに署名など要らない」
切り取った小片は火鉢へ。七の末尾につけた小さな返しが、丸まって黒くなる。
「不足金を出したのはお前だ。家の金を減らした女を、いつまで置いておける」
「その不足金、兄様の芋の仕入れとぴったり同額ですけれど」
「給金泥棒が口答えするな」
帳面で机を叩かれた。父の前では帳簿を胸に抱え、家名を守る孝行息子。私しかいないところでは机を叩く。帳面は便利だ。計算にも威嚇にも使える。できれば前者だけにしてほしい。
追い出される人間の荷物は、シャツ二枚、靴下一組、銅貨十一枚。兄が盗んだ給金は数えると腹が立つので、未回収金と呼ぶことにした。
煤けた算用帳を鞄の底へ入れる。台所を預かり始めた頃、玉葱の皮まで在庫に書いて料理人に嫌がられた帳面だ。
皮だって昨日まで玉葱だったのだから、急に無関係な顔をされても困る。
戸口に残されていた小さな芋袋を片腕で持ち上げると、ディーンが鼻を鳴らした。
「それも家の物だ」
「中身は芽の出た芋が七個です。私の晩餐としては豪華すぎますね」
「置いていけ」
晩餐、没収。
帳面を開く拍子に、古い一頁が覗いた。
二人で暮らす場合。
部屋代。塩。灯油。その下の最終行だけが空白になっている。前の生で、続きを書くより先に私の身体が終わった頁だ。隣で待っていた人の顔を思い出す前に閉じた。思い出したら、銅貨十一枚では足りないものまで数えてしまう。
「もう戻るな」
扉が閉まる。
扉一枚。銅貨十一枚。芋、零個。
名は、まだある。
ヴィオラ。
口の中で一度だけ数え、私は歩き出した。
* * *
「玉葱の皮まで数える女は嫌ですか」
「いえ、台所から泣き声が上がっています」
「では玉葱の分ですね。私ではありません」
ドミニクは困った顔で厨房を振り返った。
実家を辞めた老会計係が持ってきた一度目の仕事は、料理屋の原価整理だった。三日分の玉葱、薪、残飯を調べれば、抜き取られた鍋一杯分の煮込みが見えてくる。
「玉葱二十六個。皮の重さから見て、使ったのは二十二個です」
「仕入れ帳は二十六個になっていますが」
「棚に三個。床下に一個。店主の息子さんが毎晩、裏口から肉と一緒に運んでいます。恋人へ料理を届けるのは美談ですが、父親の店につけると横領です」
厨房の奥で何かが落ちた。たぶん鍋。息子の良心ではない。そちらは最初から棚卸しの対象外だ。
三行ごとに小計を入れ、七の末尾へ小さな返しをつける。完成した帳簿を閉じかけたところで、店主が表紙を差し出した。
「ここへ息子の名を書いてくれ。あいつが整理したことにする」
「契約書には、帳簿整理一式としか」
「給金は倍にする。女の名で出すより店の信用にもなる」
倍。銅貨を二倍にすると、温かいスープに一月ありつける。靴下も片方ずつではなく一組買える。
だからこそ、帳簿を閉じた。
「数が合いません。」
「何がだ」
「働いた者と、名を載せる者が」
高給は喉を通る。名前を抜かれた金は、たぶん途中で引っかかる。
ドミニクは帰り道で何も言わなかった。宿へ着くと、私の試算表と一枚の紙を並べる。
「拒否理由を残します。成果の名義が本人に帰属しないため、と」
「残してどうするんです」
「私が次に、同じ間違いをしないためです」
紙の端には、私の七の書き方と三行小計まで写されていた。
「筆跡の収集は少々不気味ですよ、ドミニク」
「会計係は不気味なくらいでちょうどよろしい」
少しだけ胸を張るので、減点は一つにしておいた。
* * *
二度目の仕事先で、私は芋袋を片腕で持ち上げた。
持ち上がらなかった。
「お嬢さん、無理だ!」
「いいえ。芋が無理をしています」
宿駅の倉庫番が笑った。私は袋の口を解かず、もう一度だけ引く。上は軽いのに、重心が底へ残った。
「普通の芋袋なら持ち上がります。これは性格が悪い」
紐を切ると、芋の下から拳大の石が六個転がった。重量だけは納品書とぴったり。食べられない点を除けば、実に優秀な芋である。
支配人は石を蹴り、声を低くした。
「帳簿には私が見つけたと書け。住み込みの部屋も出す。女一人には悪くない条件だろう」
「窓はありますか」
「小さいが」
「署名欄は?」
「仕事を任せるのはこちらだぞ」
部屋一つ。寝台一つ。署名、零。
「数が合いません。」
今度は石の分だけでなく、私の分も。
帰路、ドミニクが立ち止まった。
「二度、間違えました」
風に白い髪を乱されても、直そうとしなかった。
「私はあなたが飢えず、殴られず、屋根の下で眠れる条件ばかり探しました。名を奪われない条件を、探していなかった」
「殴られないのは大切ですよ」
「それを言い訳にしました」
二枚目の拒否記録へ、彼は自分の署名を入れた。
「次があるなら、私の信用を先に差し出します」
「高く売れますか」
「古いので値は落ちますが、偽物ではありません」
そこは帳簿より先に保証してほしい。
* * *
三度目の契約書は、最初から署名欄が私の側を向いていた。
「二度間違えました。三度目はあなたの名から書きます」
ドミニクは頭を下げた。
契約者、ヴィオラ。期間、十八日。日額給金、銀貨一枚。入荷簿、払出簿、給金札の閲覧権。疑義のある倉庫の封鎖権。事故による治療費と休業補償。
「成果物の名義は」
「ヴィオラ」
「写しの保管権は」
「双方に」
「途中解除の場合の給金は」
「働いた日数分を翌日までに」
「事故で死んだ場合は」
「縁起でもない確認をしますね」
「死ぬ時ほど契約書は読めませんから」
向かいにいた男が初めて顔を上げた。
辺境伯アルベール。北辺の穀倉と、そこで消える穀物と給金を調べている雇い主だ。
「補償金は本人の指定先へ。指定がなければ、未払い人夫への給金へ充当する」
「私を勝手に人夫の財布にしないでください。指定先は今決めます」
「誰にする」
「未来の私です。死なないので」
辺境伯様の口元が、ほんの少し動いた。
「承知した。生きて受け取ってくれ」
契約書へ、ヴィオラと書く。
たった三文字に、ずいぶん場所を使った。
監査は同じ机で始まった。
辺境伯様が入荷簿を読み、私が払出簿と給金札を照らす。三行ごとに小計すると、向かいから視線が飛んできた。
「何か」
「いや。続けてくれ」
「七が気になりますか」
「七は七だ」
たいへん正しい。貴族なのに数字を身分で差別しない。加点一。
六日目、入荷した芋袋を一つおきに持ち上げた。
「検品は開封ではないのか」
「先に持てば、開けるべき袋が選べます。全部開けると芋が傷みますし、私の腰も傷みます」
「片腕でなくてはならない理由は?」
「格好がよい」
「実務上の理由を聞いた」
「両腕で抱えると、自分の身体で重心をごまかしてしまうからです」
「最初からそれを答えてくれ」
「格好も大切です」
十二袋目で、腕が下へ引かれた。
開けば石。家名の入った仕入れ札は残っているのに、検品者と荷を運んだ人夫の名だけが抜けている。納品元は実家、担当はディーンだった。
十日目。ある日を境に、入荷簿の筆跡が変わっていた。数字は似せてある。けれど七の返しが逆向きで、三行小計の位置だけを真似して一行ずつずれている。
「この前までは誰が書いていましたか」
人夫たちは互いを見た。
辺境伯様が机の上へ私の契約書を置く。
「答えた者の名と給金は私が守る。ここにそう書いてある」
「……前は、納品元の若旦那です」
「ディーンが?」
「二人に銅貨を渡した。水増しの確認欄へ印を押せって」
二人が帽子を握り潰す。署名欄を指で塞がれ、黙れと言われたらしい。硬貨二枚で買った沈黙は、別の欄にきちんと計上できる。
十四日目、給金札の赤線を見つけた。
私の給金を消した線と、同じ引き方だった。
「払出簿では人夫三十二人。給金札では二十四人です」
「辞めた者ではないのか」
「食事用の玉葱は三十二人分減っています。皮の重さまで合います」
煤けた算用帳へ、私は毎日の厨房在庫も記録していた。玉葱の皮が、ここで証人席へ座るとは。数えておくものだ。料理人には嫌われるが、人夫八人は救える。
「働いた日を消されています。食べた人間は消せなかった」
辺境伯様は給金札へ触れず、私を見た。
「封鎖権を使うか」
「使います。第三倉庫と、未検品の芋袋すべて」
「許可する」
「契約上、許可は不要です」
「……そうだったな」
加点、もう一つ。
十七日目、第三倉庫で現物を数えた。
石入りの袋は下段だけではなかった。棚の上へ行くほど数が増えている。重量を誤魔化すつもりで、建物の限界まで誤魔化していたらしい。
「上段から降ろします。二人一組。通路は空けて」
「上段、二人一組!」
「通路、空けろ!」
人夫の復唱が倉内を走る。
三袋目を動かした時、棚の脚が鳴った。
木が裂ける音は、数字より速い。
「外へ! 右の扉!」
「右の扉!」
袋が一つ落ちた。石が床板を砕く。車輪付きの運搬台が傾斜を滑り、出口を塞ぐ向きに走った。
辺境伯様が人夫を突き飛ばし、代わりに棚の横木を肩へ受けた。
「アル——」
喉まで出た名を噛む。
私は壁際の車輪止めを二つ拾い、一つを運搬台の下へ蹴り込んだ。浅い。もう一度、踵で打つ。止まった台へ飛び乗り、棚を支える斜めの梁の下へ二つ目を手で叩き込む。ささくれが指二本を裂いた。
梁が一息だけ持ち上がった。
「今! 左側から抜けて!」
「左から抜けろ!」
人夫が二人、三人、外へ走る。最後の一人が振り返った。
「縄を運搬台へ掛けて出口へ。引けと言ったら引いて!」
「縄、出口!」
辺境伯様の右腕は動かない。額から血が落ちている。
「右腕を私の肩へ」
「君一人では」
「芋袋より会話が多い!」
腰を落とし、左腕を背へ回す。片腕で芋袋を持ち上げてきた。芋は礼を言わないし、自分で足も動かさない。その点、この人は芋より優秀なはずだ。
「三つ数えたら走ります。辺境伯様は芋袋より軽い顔をしてください」
「どんな顔だ」
「一、二、三! 縄を引いて!」
一歩。右足。
二歩。棚が沈む。
三歩。肩へ体重がかかる。
四歩。縄が張り、運搬台の尻が通路の脇へずれる。
五歩。石が背後へ落ちる。
六歩。
七歩目で、外の光へ転がり出た。
直後、倉の半分が潰れた。土煙が背中を追い越す。
「全員いるか!」
「一!」
「二!」
人夫たちが自分で番号を叫ぶ。最後に三十二が上がった。
私は辺境伯様を地面へ座らせた。右腕を確かめようとすると、無事な左手で先に私の手を取られる。
「指を見せろ」
「腕を怪我した人が、なぜ私の指を数えるんです」
「血が出ている」
「二本です。そちらは一本。私の勝ち」
「何の勝負だ」
答える前に、膝が震えた。
辺境伯様の指が、私の傷の手前で止まる。触れれば壊れる物でも扱うように。
十八日目、監査結果の読み上げは倉の前で行われた。
「名を伏せれば、納品元からの報復は避けやすい」
辺境伯様が確認する。
私は包帯を巻いた手で報告書を持った。
「伏せません。私が調べました。人夫たちが証言しました。名前を隠して責任だけ取る仕事は、二度断っています」
「では、契約どおりに」
「はい。監査者、ヴィオラ」
自分の名を読む。人夫たちの前で。消されない声で。
ディーンは父の前へ出ると、帳簿を胸に抱えて頭を下げた。
「家名を守るため、誤りがないか確かめに参りました」
私を見た途端、その指が報告書の署名欄を塞ぐ。
「お前は黙っていろ。家の取引に口を出すな」
「実名監査契約を読み上げる」
辺境伯様の声で、ディーンの指がどいた。
契約者名。閲覧権。封鎖権。成果の帰属。私の名が一項ごとに読み上げられるたび、ディーンの肩が狭くなる。
「行き違いがあったようです」
「先ほどは黙れと」
「家族の話です」
「次は人夫の話をしよう」
給金札が開かれた。
一人目が前へ出る。
「未払い、九日」
「九日、確認」
二人目。
「十二日」
「十二日、確認」
「七日」
「十五日」
一人ずつ、自分の日数を名乗る。二十四人目を過ぎても列は終わらない。赤線の下から、働いた人間が戻ってくる。
最後に私が算盤を置いた。
「数が合いません。」
ディーンが唇を舐める。
「だから行き違いだと」
「水増し納品の返還額だけでは、未払い給金と私の三年分に足りません。こちらの欄です。人夫二人へ渡した銅貨、架空の運送費、兄様名義で受け取った手数料」
赤線で消した金を、同じ手へ返して差し上げる。利息つきで。
してやったり。いや、会計上は当然の帰属訂正である。頬が勝手に上がるのは監査範囲外だ。
ディーンの取引札がその場で取り上げられた。父は息子の腰から倉の鍵を外し、家督から除く旨の書面へ署名する。ディーンは横領分の返還証書を前にして、二度ペンを落とし、三度目に自分の名を書いた。
「ヴィオラが管理すれば——」
「しません」
扶養、零。監督、零。兄の再起を妹の仕事へ混ぜない。勘定科目が違う。
回収された銀貨は、私の未回収給金と、人夫たちの未払い日数へ分けられた。受領印が一つずつ並ぶ。
「給金泥棒は、どちらだったのでしょうね」
辺境伯様が静かに言った。
上品な声は、ときどき刃物よりよく切れる。
* * *
手当てを終えた夜、辺境伯様は煤けた算用帳を私の前へ置いた。
「開いても?」
「玉葱の皮まで載っていますよ」
「それも読みたい」
「変わったご趣味ですね」
包帯を巻いた右腕では頁をめくれない。私が代わりに開くと、七の返しと三行ごとの小計が並んだ。
「この七を、以前に見た」
一度目と二度目の試算表が机に置かれる。ドミニクが保存していた拒否記録も一緒だ。
「字の癖だけなら、似た者はいる」
彼は自分でその証拠を退けた。
「三行ごとの小計も、合理的な習慣にすぎない。片腕で袋を持つ者も、世界に君一人とは限らない」
「二人くらいはいるかもしれません」
「だが、ずっと問い続けていた。君なのか。違うのか。もし君なら、また間に合わないのか」
問いが重なるたび、簡潔だった声が崩れていく。
頁をめくる。
二人で暮らす場合。
空白の最終行。
辺境伯様は左手でペンを取った。
「続きを決めた夜、君は冬の薪代を先に、私は二人分の食器代をその下へ、と言った」
空白の先を、前の生の二人だけが知る順番で読み上げた。
「灯油は少なめでいい。君は暗くなっても帳簿を閉じなかった」
「あなたが隣で本を読んでいたからです」
「塩は多めに。君は薄味にして、私の分まで自分が我慢する」
「健康的です」
「まずい」
その一言で、名前より先に分かってしまった。
前の生で、私の料理をまずいと言えたのは一人だけだった。食べ終えてから言う、卑怯な人も。
「どうして」
声が出た。続きは出ない。
彼の目から落ちた雫が、空白の行を一つ濡らした。
「会計係を捜していたのではない。君を捜していた」
アルベール。
今度は喉で止めなかった。
「ヴィオラ。間に合ったのか。今度は、君が生きているうちに言えるのか」
私はペンを取る。指が震え、七の返しがいつもより大きく曲がった。
冬の薪代。
前の生で書けなかった項目を足す。
アルベールがその下へ、二人分の食器代と書いた。高すぎる。白い皿を買う気だ。この人は皿の相場を知らない。
けれど口を挟めなかった。
「君の帳簿を認めたからではない。名を守るために仕事を断った君を見た。人夫の名を戻した君を見た。倉で私を担いだ君を見た。欠点も見た」
「最後だけ詳しく」
「玉葱の皮を捨てない。芋袋と会話する。契約書を読む時は怖い。自分の怪我を二本と数えて、私の一本に勝ったと言う」
「ほとんど長所です」
「その全部を持った、今ここで泣いているヴィオラに頼みたい」
彼は私の名の隣へ、自分の名を書いた。
「私の伴侶になってくれ。仕事をやめろとは言わない。帳簿も、皮も、君の名も、私の隣へ持ってきてほしい」
紙の数字が滲む。拭っても増える。数えるのをやめても、頬を伝うものだけは止まらなかった。
前の生で置いてきた人がいる。
今の私を見つけた人がいる。
同じ人なのに、同じ一人へ戻してはいけない気がした。
「数が合いません。」
アルベールが息を止める。
「あなたを一人と数えたくない。私を足して、二人にしてください」
抱きしめられた。負傷していない左腕だけで、不器用に。私は彼の包帯へ触れないよう両手を回した。
算用帳の上で、ヴィオラとアルベールの名が隣り合っていた。
未回収だったものは、金だけではなかったらしい。
結婚後も、私は会計係を辞めなかった。
執務室には私専用の机が置かれた。アルベールの机の隣、書類を渡すのに腕どころか肘も要らない距離である。
「近すぎませんか」
会計係たちが指摘すると、アルベールは二つの机を眺めた。
「確かに」
そして一指分だけ、さらに寄せた。
二人分の食器、二枚。
冬の薪、十分。
机と机の隙間、零。
今度の最終行には、もう空白がない。




