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第5話 計画

 白色灯が、配布前の紙の角だけを鋭く見せていた。演台の脇に三十秒の砂時計のステッカーを貼る。指先で脳内の手順表をなぞる。公開テンプレ、由来票、番地表——今日、必ず手渡す三枚だ。


「まず三行でお願いします」室長が静かに合図した。


 勉は一歩前に出て、息を整えた。


「事実は、月で暮らす手順を作り、そこから火星へ向かうことです。日本起点で輸送と滞在の力を二倍にいたします」

「手続は、段階を飛ばさず、承認の場で統治します。読む役と押す役と見張る役を分けて運用いたします」

「責任は、三時間後と二十四時間後の公開で果たします。止めた出来事も成果として記録し、由来票で部品の出自を追います」


 審議官のペン先が音を立てて止まった。後列では主計の若手が資料の束をぴたりと揃える。スクリーンには《八咫烏計画 Ver.1.0——Moon→Mars ×2》。副題は外した。熱は本文で出す。


「目的を簡潔にお願いします」審議官が顔を上げた。


「目的は、帰り道を前提にした暮らし方を月で作ることです。その手順を持って近火星へ進みます」


「原則は何ですか」


「段を抜かないこと、止まった記録も評価に入れること、見せるために作ること、そして下町からメーカーまでの線を紙に残すことです」


 勉は砂時計を逆さにした。細い砂が落ち始め、会議室の音が浅くなる。三十秒後に会話が崩れることを、空気ごと示したかった。


「配置で見せてください」主計の若手が尋ねた。


「はい。低軌道にKAGUYA、同じ面にLEOの補給拠点、楕円の先にNRHOの拠点、極域にHAGOROMOです。置き場所を決めると、互いの働きが見えます」


 配置図の矢印に視線が集まる。審議官が指で日付欄を軽く叩いた。


「段取りを教えてください」


「今はPhase0–1です。言葉と紙の揃え直し、それから糸通しです。低温配管の温度差は三ケルビン未満で実証します。低軌道の小さな補給実験でボイルオフの率を測ります。居住の実験は七十二時間を基本に、二酸化炭素の再生と交換を併用いたします。通信の遅延は常設のデモで示します」


「その先はどうしますか」


「一年半から三年でKAGUYAを動かし、LEOの拠点を常設にします。三年から六年で月面の短期滞在、作った酸素をNRHOに上げます。六年から九年で近火星の実証に移り、最後に短期の火星キャンペーンです」


 数字は必要最小限だけにした。燃焼室圧二十メガパスカル、メタロックス、断熱は二十四層、吸込み余裕はプラス六百ミリ。紙に二つまで。残りは場面と台詞で動かす。


「運用の姿を見せてください」与党側の理事が言った。


「読む役、押す役、見張る役を分けます。承認の票には誰が、いつ、どのボタンに触れるかを書きます。公開は三時間後に一次、二十四時間後に改訂を出します。隠した事実の存在も先に示します」


 配布を始めると、紙が掌に移るたびに空気の温度がわずかに変わった。角の立った紙は、持たれた先で責任を持つ。


「費用は幅で示してください」主計の若手がためらいがちに言った。


「十年でおよそ三兆から五兆の間です。年のピークは六千から七千五百億の範囲で、段の二から三に重なります。止まるための費用は、最初から入れております」


 前列で椅子がわずかに軋んだ。総理は数拍置いてから短く笑った。


「よろしいです。止まる仕組みに先に投資します。政治も三十秒を練習します。——面白いです」


 場がほどけた反動で、勉の胸は少しだけ軽くなった。すぐに手元の機材を取る。遅延の小デモを始める時間だ。質問、三十秒の静寂、返答。紙で書かれた数字よりも、沈黙の質のほうが桁を動かすことがある。


「事故が起きたらどうしますか」審議官が質問役を引き受けた。


 勉は口を開かず、砂の音に耳を澄ませた。三十秒のあと、言葉を置く。


「事実は一次停止です。手続は分岐の中から帰還を選びます。責任は、誰がいつどのボタンに触れたかまで開示し、三時間で一次の発表を出します」


 頷きが列で波打った。沈黙の中で納得が生まれる、珍しい瞬間だった。


 会議を抜け出すと、試験棟の空気は冷たく、金属の匂いにわずかにメタンが混じっていた。Powerpack-Aがスタンドに縛りつけられている。オレンジ色の数字が二十を点滅させて消えた。


 壁の白いボードには、見慣れた三つの言葉——今すぐ/様子を見る/とりあえず。線で消してある。今日も同じだ。


「推進、お願いします」

「Goです。吸込みの余裕はプラス六百ミリです」

「熱はどうですか」

「Goです。配管の温度差は二・七ケルビンです」

「誘導は」

「Goです。慣性の二系統は健全です」

「安全は」

「Goです。遮断は待機です」

「押す役は」

「Goです」

「見張る役は」

「Goです。監視卓二番です」

「読む役は」

「Goです。一次の公開メモは起票済みです」


 係長が親指を上げた。


「十から入ります。……五、四、三、二、一——点火」


 重い音が床から脛に上がってきた。白い霧がふくらみ、青い炎が短く瞬く。三秒で警告灯が赤に変わる。自動停止だ。


「記録します。一次は三時間後です。入口側のキャビテーションの気配です」係長の声は落ち着いていた。


 勉は素早く打つ。事実は自動停止、手続は誘導流路の見直しと承認の場、責任は票に再開条件を追記すること。吸込みの余裕はプラス六百ミリを守る。送信のクリックは小さな音しか立てなかったが、周囲の空気が一段締まった。


 夕方、下町の工場に寄る。○○ゴム工業の作業台には二色の朱肉が並び、親方が袖をまくる。


「二経路はこっちとこっちです。ロットは二四一〇と二四一一です。欠けた印は戻します」


「ありがとうございます。由来票に写します」


 ぽん、ぽん。二つの印が紙に沈み、朱の匂いが立った。


「火星に送るんですか」親方が笑った。


「帰ってくる前提で送ります」


「なら、ゴムは地味に偉いです。止めるときに、本領を出します」


 夜、官邸の小さな会議室は昼より静かだった。勉は三行の図だけを置いた。Kaを主に、光は補助、可視の窓と政治日程の重ね図、三十秒のタイムバー。


「明日は三十秒でやります。質問、静寂、返答です。政治も練習いたします」総理は短く言い、広報が頷いた。


「隠す線引きは先に出します。隠した事実の存在も、同時に示します」


 深夜の統合ハンガーに戻ると、KAGUYAのモックアップが吊られていた。居住ラックには緑のタグ、冷媒の配管には青、透明のポケットの中で由来票が光る。運用の若手が番地表を壁に貼った。右上に小さく、朝と同じ三つの言葉が斜線で消されている。


「明朝、再試験です。誘導流路の加工が終わりました」係長が肩の力を抜いた。


 誰かが小さく手を打った。続いてもう一人。十人を越える頃には、白色灯がわずかに揺れて見えた。


「火星に——絶対行きます」勉は背を伸ばして言った。


「帰ってきます!」

「止めて進みます!」


 叫びは長く続かなかった。日本語は長く叫ぶ言葉ではない。それでも十分だった。胸に残る振動が、明日の手順の骨になる。


 最後の仕上げに、三枚を掲示板に並べた。公開のテンプレは事実、手続、責任の三行で、三時間と二十四時間の欄を太くする。由来票は品名、規格、ロット、仕入先、検収印、工程の順で、二色の印を重ねた欄に印影が増えていく。番地表は読む・押す・見張るの三つに分け、人の名前と場所と時刻を番地で示す。


 配って終わりではない。貼って、押して、使う。紙は軽い。だが、押せるように作った紙は重い。その重さで、遅れてやって来る音を少しだけ短くできる。


 勉は砂時計をもう一度だけ逆さにした。三十秒。会話が崩れる前に、設計図を先に出す。段は飛ばさない。糸を通す。行って、帰る。その順番で、進む。

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