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その時、大勢の足音が聞こえてくることに気がついた。慌てて端に避けて頭を垂れる。
「あら」
足音の先頭を歩いていたと思しき人物が私の前で立ち止まり、鈴のような声を上げた。それと同時に足音が止む。明らかに高貴な身分の女性だ。
「貴女……」
周りには私しかおらず、私に話しかけていることは明白だった。私は控えめに顔を上げる。
目の前の女性は今まで私が中庭内で見てきた妃嬪より華やかな衣を身に纏い、着けている装飾品の数も多い。それなのに私を見る表情は気取ったものではなく、素朴さすら感じられた。
(何者なの……?)
女性は姉には劣るがとても美しい。赤茶色の髪の毛が印象的な女性は紫がかった瞳で煌めくように私を見つめている。
「突然ごめんなさいね。貴女の髪色に見覚えがあったものだから」
私はハッと息を飲む。私と同じ髪色を持つ人──姉のことかもしれない。
女性は穏やかな顔で私を見つめている。人が良さそうに見えるが、ここは後宮だ。この女性が姉を殺した可能性だってある。
「中庭を掃除していたの? 広くて大変でしょう」
女性は女官を伴って、先程私が掃除をしていた椅子に座った。テーブルを愛おしそうに撫でる。
「綺麗に掃除してくれてありがとう」
「いえ……とんでもございません」
私は深々と頭を下げた。身なりからして妃以上ではありそうなのに、偉そうな態度が微塵も感じられない。それどころか、私みたいな下級の女官にこんな言葉までかけてくれるなんて。
(騙されるな、この人にだって裏があるはず……)
私の髪色に反応したのだ。姉を殺した犯人である可能性すらある。
「ねえ貴女。私の宮の掃除をしてくれない?」
「……へ?」
思わず口を開けてしまう。女性は柔和な笑みを浮かべている。
「私の宮は人手が足りないのよ。貴女みたいな仕事の丁寧な人が掃除にきてくれたら嬉しいわ」
願ってもないことだ。姉の死の真相を探るためには妃嬪付きの女官になることが大事だと思っていた。
この方の女官にと誘われたわけではないが、掃除であっても妃嬪の宮殿に出入りできるだけで情報を得る可能性が広がる。
「ぜひ、勤めさせていただきます」
「よろしくね」
「では、明日から紅貴妃様の宮殿に。掃除の箇所は女官から説明させます」
女性の側に控えていた可愛らしい雰囲気の女官がそう私に告げた。
「き……」
私は驚きのあまり声が出そうになって、慌てて口を閉じて頭を下げる。
紅貴妃様。それはこの後宮で皇后様の次に高貴な身分のお方だ。
(なんてこと……)
妃嬪のお付きに、と思ってはいたが、まさかここまで大物を引き当てられるとは。
(お姉様……)
確実に姉の死の真相に一歩近づけた。私は胸をいっぱいにしながらその場から辞する。
興奮するその足で向かったのは、凌崔と出会った建物だ。凌崔を信頼したわけではないが、凌崔の助言により紅貴妃様と関わりが持てたことに違いはなかった。
また会える保証はなかったが、気持ちを落ち着けるためにも人のいないあの場所は最適だ。
「お、来たな」
三階へと登ると凌崔がいた。
「……暇なの?」
まさか会えると思わず、本音をぶつけてしまう。
「夏珠、お前失礼だな。俺だっていつもここにいるわけじゃないぞ? 休憩中だけだ」
「……本当に?」
「疑うなよ」
凌崔は私の頭をコツリと叩く。
「それにしても夏珠。何だか上機嫌だな」
「貴方に会うのは二度目なのに、そんなことわかるわけないでしょう」
図星を突かれて思わず口を尖らせてしまう。
「夏珠は顔に出るんだな。それで? 上級妃とは会えたのか?」
「……会えたどころじゃないわ」
復讐を果たすのにあまり他人に自分の情報を伝えない方がいいのはわかってはいるが、凌崔は侍衛だ。少なくとも姉の死に関わってはいないだろう。
その事実が私の口を軽くさせる。
「明日から紅貴妃様の宮殿で掃除をすることになったの」
「へえ」
凌崔は面白いおもちゃを見つけたかのように目を輝かせた。
「やるな。夏珠の後宮で上り詰めたい気持ちは本物ってことだな」
「からかわないで。それに、私の実力というわけではないわ」
紅貴妃様が私に声をかけてくれたのはこの髪色のおかげ。つまり姉のおかげなのだから。
「それにしても紅貴妃様か。たしかに好奇心旺盛で物好きなお方だそうだからな」
「そうなの?」
「ああ。女官も個性派揃いらしいぜ。夏珠が気に入られたのも頷ける話だ」
「それって褒めてる? それとも貶してる?」
凌崔はケラケラと笑う。
「その性格が陛下に気に入られて、まるで友のように語り明かすこともあるらしい。皇子も産んでいるし、貴妃に封じられた時も納得、といった雰囲気だったな。皇后様からしたら面白くない存在なんだろうけどな」
「……敵は多いのかしら」
「そりゃ高貴な身分になればなるほど敵も、擦り寄ってくるやつも多いだろうよ」
姉と紅貴妃様に面識はあったのだろうか。そうだとしたら、姉は紅貴妃様をどう思っていたのだろう。
「紅貴妃様自身も強かでなければここまで上り詰められなかったはず……よね」
「それは自分の目で確かめてみればいい」
凌崔は目を細める。
「俺は夏珠のことが気に入った。何を企んでいるか知らないが、何かあったら俺を頼れよ」
「それじゃあ凌崔も出世してもらわないとね」
「生意気なことを言うな」
凌崔に小突かれて思わずクスリと笑ってしまう。後宮の中に友達はいない。作らないでおこうと決めていた。
だからこそ凌崔との気安いやりとりで気分が軽くなっていると感じていた。




