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「──慎ちゃん!明日の朝提出の数学のプリントまだやってないでしょ!?」
「あ?なんだよそれ」
「噓でしょお昼休みにも言ったのにもう記憶ないの……!?青いファイルに入れておいてあげたやつだよ、解き方書いたノート貸すからそれ見ながらやっちゃって!次忘れたらさすがに成績に響くよっ」
「ぎゃーぎゃーうるせぇな、お前は俺の母ちゃんか」
「ほんとのお母さんの言うことだって聞かないくせに……!もうっ、早くやらないと今日はグループワークの方に迷惑がかかるんだからね!」
放課後の教室。
相手の机から青いファイルを取り出し、中のプリントを自分のそれとセットにして半ば押し付けるように渡す。「めんどくせぇ……」と億劫な態度を隠しもしない相手に僕はため息をついた。
──僕・林藤 歩夢と慎ちゃんこと高瀬 慎二くんは小学校からの幼なじみだ。
165センチの僕より15センチは高い長身に、一見細身だけど日課のジョギングと筋トレの賜物かバランス良く引き締まった体つき。目つきが鋭いからか怖いなんて言われちゃうこともあるけど、引きで見ると綺麗に整っている顔立ちは精悍という言葉がぴったりくるタイプの美形で、耳にかかるくらいの癖のないシンプルな黒髪が似合っている。
「まあまあ。こっちはあとまとめるだけだし、もう少し待っててやろうぜ」
「そーそー。林藤が頑張ってくれたおかげでうちらは他のグループより早く進んでるし」
「……二人がそう言うなら……」
机に掛けて僕たちのやりとりを眺めながらそう声をかけてくれたのは、同じクラスの鈴木くんと佐藤さん。僕たちはこの四人で公民の授業のグループワークを進めていて、明日の発表に向けての最終調整のためにこうして集まったのだ。
「ごめんね、僕がもっと早く慎ちゃんにプリントをやらせてれば……」
「林藤が謝ることじゃないって。ほらお前もこっち座っていっしょに待とう」
「うん、ありがとう。──あ」
このままここにいても慎ちゃんが集中出来ないだろうとそこから離れようとすると、少しふらついて近くの机に手をついてしまう。
高校入学から約二ヶ月経っていて、汗ばむ日も増えた頃。昔から体力がなくてバテやすい僕はこの時期から意識して水分をとらないとこんな風に目眩がしたり、頭が痛くなったりしやすい。
──今日最後の授業の体育の後飲み物を買いそびれちゃったのも関係あるのかな……。
「歩夢」
「ん?」
「俺のバッグに“あれ”入ってる」
「え……?」
待ってる間にすぐそこの自販機で何か買ってこようかな……でも……と迷ってるうちに、プリントに目線を落としたままの慎ちゃんが声を上げる。まさかと思いながら机の脇にかかっている彼のバッグを開けると、僕がいつも飲んでいるスポーツドリンクが顔を覗かせた。
「これ……」
「またバテる前に飲んどけ」
このスポーツドリンクは飲みやすくて味も好きなんだけど、僕たちのいる教室からはどんなに早足でも往復で十分くらいかかるところにある自販機でしか売っていないのだ。
──わざわざあそこまで行って買っておいてくれたんだ……。
僕のためにどこかのタイミングでいそいそと遠い方の自販機へ向かう慎ちゃんを想像して、胸がきゅうっ、と軋む。口は悪いし無愛想だけどふとした時に優しさが垣間見える──そんな慎ちゃんに恋愛感情を持ってると自覚してからもう何年経っただろう。
「ありがとう慎ちゃん……!」
「……別に」
「えっと、確かこれ150円だったよねっ」
「いいよこっちはプリント借りてんだから」
「そうやっていつも何かしら理由つけて奢ってくれるじゃん!ほんの小銭でも何回も使えばすごい金額に──」
「あ、消しゴム落ちた」
「ちょっ……、足癖が悪い!消しゴムくらい手で取れるのになんで足でやるのっ」
「林藤ー?早くこっちおいでよー」
「おら、あっちで呼んでる」
「あっ、ごめん今行くね!」
結局慎ちゃんにお金を払えないまま、彼から少し離れたところに四つの席をくっつけた上で僕が座るところを空けておいてくれていた佐藤さんのところへ歩いていく。
「林藤、高瀬がプリントやってる間にうちらは恋バナでもしない?」
「こ、恋バナ……?」
机に掛けて慎ちゃんがくれたスポーツドリンクを飲もうと蓋に手をかけたところで、佐藤さんがワクワクといった様子で僕の方へ身を乗り出しながらそう言ってくる。
「うん!林藤って男とも付き合えるの?」
「どぇっ?」
今から恋バナ──恋の話をするんだと理解した上でも思わぬ角度から飛んで来た質問に、素っ頓狂な声が口を突いて出る。
「佐藤……さすがにその聞き方は唐突過ぎるだろ」
「えー?だって鈴木が知りたいって言っ」
「あー、林藤?」
何かを言いかけた佐藤さんを遮るようにして僕を呼んで、「無理して答えなくて良いからな?」と続ける鈴木くん。
「え、えっと……男の子とも付き合える、かも?」
佐藤さんたちは慎ちゃんがプリント終わるの待ってくれてる上に好意的に話も振ってくれてるんだし、ここで乗らないのも悪いだろうと言葉を選びながら答える。
──付き合えるかもっていうか、僕が今付き合いたいのはそこで数学のプリントやってる男の子なんだけどね……!
女の子だけが恋愛対象ですと言い切るのも気が引けて、敢えてそんなふんわりした感じで応えると、佐藤さんは「へぇー!」と思いの外食いついてくれた。
「じゃあさじゃあさ、好きなタイプは?」
「す、好きなタイプ……?」
「どういう人と付き合いたい?とにかく顔が良い人とか、頭の良い人が好きとか?男女当てはまるやつでよろしくー」
「ええっ」
ちら、と慎ちゃんの方を盗み見る。正直、気づいた頃には慎ちゃんが好きだったので好みのタイプを聞かれてもピンとこない。
──そのまま慎ちゃんの特徴言ったら本人に好きだってバレちゃうよな……。
──どうしよう、うっかり好きバレしちゃったら『はぁ?』って粗大ごみを見るような目で一蹴されるに決まってる。適当に髪の長い女の子が好きとか言っとく?でも今男女問わず当てはまるやつって指定されちゃったし……!
──そ、そうだ。ここはとりあえず――……。
「えっと……笑顔が素敵で爽やかで……お喋りが上手で、あと眼鏡が似合う知的な人かな……!」
頭の中でひとつひとつ確認しながら、なるべく慎ちゃんとは真逆の要素を上げていく。
──慎ちゃんは普段表情筋を使わないからか笑顔を作るのが苦手だし、本当は優しいのに言葉足らず過ぎて誤解されることも多い。視力も両目2.0で眼鏡のお世話になる予定もなさそうだし、勉強が苦手で知的とは対極のところにいる……。
──よし、これなら僕が好きだってことは慎ちゃんにはバレないはず!
そう思って慎ちゃんの反応を見ようとするけど相変わらず「あ"?こんな問題習ったか?記憶にねぇよ……」なんてぶつくさ言いながらも真っ当に(?)プリントに向き合っている(復習問題なので習ってないはずはない)。
──だよね──……。
どんなに気を遣って答えたところで、そもそも慎ちゃんは僕には興味なんてないから好みなんて知ったことじゃないんだ。最近だと勉強が苦手で提出物にも関心がない慎ちゃんをどうにか進級させるためにと口うるさくなった僕を鬱陶しく思ってるみたいだし……。
「わっ、それすっごい分かる。爽やかなの大事」
「あはは……。僕の話はこれくらいにして、次は二人のこと教えてよっ」
「……おっ、もうこんな時間か。高瀬ー、そろそろ話し合い再開するぞー」
「鈴木くん……!?」
「あ、うちちょっとトイレ行ってくるわ」
「佐藤さん!?」
「じゃあ佐藤が戻って来たら再開ってことで」
「ちょっと僕だけに言わせて終わりなんて酷くない!?」
なんだかいたたまれなくなって話の矛先を他の二人に向けた途端、そそくさと教室を出て行く佐藤さんの背中にそう叫ぶ僕を鈴木くんが苦笑いしながら見ている。
「……よし終わった。鈴本、帰りに寄るところ出来たからさっさと終わらせる」
「待てまて、佐藤がトイレから戻ったらって言っただろ?あと俺は鈴木な」
──それで慎ちゃんは全然話聞いてないし!
──これじゃあ慎ちゃんと真逆の人物像を無理やり作った僕が馬鹿みたいじゃないか!
「なんだよ?」
僕の好きなタイプどころか後の予定のことも聞いてなかったらしい慎ちゃんをじとりと睨みつけながら、僕はもらったスポーツドリンクをぐいっとあおるのだった。
◇◇
「あっ!おはよう慎ちゃん──……!?」
次の日の朝。
校門をくぐってすぐ、少し前を歩く見覚えのある背中に駆け寄って挨拶をしたところで、振り返った“彼”を見て僕は絶句した。
「──やあ、おはよう」
──生徒手帳に書いてある“理想的な身だしなみ”の欄をそのまま再現したと思われるきっちりと着こなされたブレザーの制服。
──昨日あれだけ数学のプリントに苦戦していたとは思えないような知的なイメージを醸し出す黒縁の(おそらく)だて眼鏡。
──こども番組の歌のお兄さんに決まりましたと急に言われても一瞬で信じることが出来そうなくらい眩しくて溌剌とした笑顔。
僕に向かって片手をひらりと上げながら挨拶を返してくれたのは、昨日もこの学校で一緒に授業を受けて、放課後もグループワークで一緒に過ごした“彼”──もとい慎ちゃん……の、はずなんだけど。
「どうしたんだい?そんなにじっと見つめて」
「えっと……慎ちゃん、だよね……?」
「ははは、いやだなぁ歩夢くん。小学校から同じの幼なじみの顔を忘れたのかい?」
「歩夢“くん”……!?忘れたの“かい”……!?」
見た目もさることながら普段の慎ちゃんからはまず聞けない爽やかな物言いに思わず後ずさるけど、いくらなんでも失礼な反応だったかな……と反省しながらかける言葉を必死に探す。
「その、ちょっと雰囲気変わってたから……」
「ああ、高校デビューってやつだよ」
「高校入学して2カ月も経ってるのに!?」
高校デビューっていうのはまだ周りのイメージが出来ていない入学直後からやるから意味を持つのであって、そこそこ人となりが分かって来た頃にやっても不自然なだけじゃないか。現に今続々と登校してきた、普段の慎ちゃんを知るクラスメイトたちは今の彼を目の当たりにしてどよめいている。
「高瀬は何があったんだ……?」
「強めに頭打ったとか?」
「いや、何か悩みがあるのかもしれない」
「あっ、もしかして芸能事務所にスカウトされて、好青年キャラで売り出すことになったとか!?」
「あの顔から考えればそれが一番しっくりくるかも……!」
「でもずっとあのキャラでいくのしんどそうだな……」
──芸能界?そんなまさか!
──前に町でスカウトされた時は鋭い眼光で一蹴してモデル事務所のお姉さんに逃げられてたのに!
「あの、慎ちゃん……何かあったなら相談に──」
「──そこの一年避けろ!」
これはもう、何か大きな悩みを一人で抱え込んでいるに違いない。幼なじみとしてちゃんと話を聞いてあげなければ!そう心に誓った瞬間、何やら焦ったような声がグラウンドの方から聞こえたと思えば瞬きの間にサッカーボールが僕の視界いっぱいに写る。
「あっ……」
ぶつかる……!と強く目を閉じて身構えたけど、少し経っても覚悟していた衝撃や痛みはない。おそるおそる目を開けると、僕の眼前に差し出した片腕でボールを受け止める慎ちゃんの姿があった。
「慎ちゃん!」
「大丈夫かい……!?」
「ぼっ、僕は大丈夫だけど慎ちゃんが……っ」
声は緊迫しているものの表情筋の操作に慣れていないのか、満面の笑みのままこちらを覗き込んでくる慎ちゃんにちょっと前に見たサイコホラーの映画を思い出しながら、半ば無理やりその腕を取って制服の袖を捲る。無駄な肉がなく引き締まったそこはこれから痣になってしまうのか赤く変色し始めていた。
「僕のせいでこんな……!保健室行こうっ」
「歩夢くんのせいじゃないよ。腕も普通に動くし、これくらい何ともないって」
「でも……!」
なんとか保健室に連れて行くべく食い下がる僕を後目に、慎ちゃんは足元に落ちたボールを拾ってそれが飛んできた方へと蹴り返す。
「君にケガがなくて良かった」
「……っ」
僕に背を向けてしまったのでその表情は見えないけど、ほっとしているのが伝わるようなその一言は小学生の頃似たようなことがあった時にこうして守ってくれて『お前がケガしてないならそれで良い』と言ってくれたのと同じ温度だった。
──こういうところは──僕の好きな慎ちゃんは変わってないんだ。
「おいっ、なんか弾丸みたいなサッカーボールが飛んできたぞ!」
「これさっき山田が蹴ったやつじゃないか!?」
「山田が被弾して倒れてる!」
「誰だこれ蹴ったの!?サッカー部に勧誘しようぜ!」
在りし日の慎ちゃん(別に今も生きてはいるけど……)に思いを馳せている間、何やらサッカー部の方で騒いでる声が僕の耳にも届いたけど、一夜にして大変身を遂げた幼なじみのことで頭がいっぱいで詳細は分からなかった。