第8話 『魔筆が描く未来』
泉の水音が静かに響いていた。
霧が晴れた森の中、銀髪の少女――セリアは、まだ意識の境界にいた。
リエーナが癒しの魔力を送り続けている間、良介はそっと彼女の手に触れてみた。
冷たい。けれど、脈は確かにある。
その胸元の水晶が、青く脈打つたびに、かすかな精霊の波動が彼女を包んでいた。
「……セリア。君は、何者なんだ?」
問いかけたそのとき、セリアのまぶたがかすかに動いた。
そして――
「……こわ……かった……」
小さな声が漏れた。
「……水が……こっちを見ていた……あの目……わたしを、誰かに変えようとして……」
その言葉に、良介は背筋が凍った。
(変えようとした? まさか、書き換え……?)
彼女もまた、“物語の改変”に巻き込まれた存在なのか。
「大丈夫、もう安全です。あなた、名前は?」
リエーナがやさしく問いかけると、セリアはおそるおそる口を開いた。
「……セリア。……精霊の巫女の、はずだった……」
“だった”。
その言い回しに、違和感があった。
「……記憶が、全部あるわけじゃない。でも……私、森に入って、何かを探していて……気づいたら、ここにいて……知らない名前を呼ばれていたの」
「それって……“他の誰か”として記憶を改変されかけたってことか……?」
良介は、まるで“キャラクターの設定が上書きされた”ような印象を受けた。
そして――
『物語の登場人物の記憶は、筆で塗り替えることができる』
かつて自分がプロットに残した設定文が、ふと脳裏をよぎった。
《魔属の筆》――
文字を書けば具現化する力。だが、それは“現実化”だけではなく、“書き換え”も可能だということ。
そのとき、ポケットの中で筆が微かに震えた。
良介は反射的に《魔属の筆》を取り出した。
黒い羽のようなそれは、まるで主の意識を感じ取ったかのように輝き始める。
そして《運命の書》が空中に開く。
『彼女の記憶は未完成。
だが“真名”を記すことで、かつての契約を呼び戻すことができる』
「……真名……?」
ページには、ひとつの名前が浮かび上がっていた。
『セリア=ルーミス・イシェリナ』
「これが、彼女の本当の……」
良介は筆を握り、そっと泉の傍の岩にその名前を記した。
次の瞬間――
セリアの胸元の水晶が強く輝き、精霊の魔力が解き放たれた。
「う、あ……!」
青白い霧がセリアの体を包み、彼女の周囲に水の渦が巻き起こる。
「精霊……!」
リエーナが一歩後ろに下がる。
カイも剣を構えかけたが、良介が手を挙げて制した。
「大丈夫……これは、彼女の力だ」
渦の中、セリアの瞳がはっきりと開かれた。
それはさっきまでの迷いのない、意志ある目だった。
「……思い出した。私はセリア=ルーミス・イシェリナ。水の精霊と契約した者。そして……“書かれていなかった存在”」
良介の喉が音を立てた。
「君も、気づいてるんだな……この世界が“書き換えられてる”ってこと」
セリアは小さく頷いた。
「この森も……この泉も……どこかが“誰かの筆”で汚されている。精霊の流れが歪んでいるの。だから……私は、抗いたい」
その言葉は、まるで――
「物語を書き換えた“誰か”に、抗うためにここに存在しているみたいに……」
その夜。
焚き火を囲みながら、良介はセリアと向き合っていた。
リエーナは黙ってその様子を見守り、カイは腕を組んで遠くを見ていた。
「俺は……この世界の“書き手”だったはずなんだ。でも、もう自信がない。俺の知らないシーン、知らない設定、知らない登場人物が増えてきてる」
「あなたが書いた物語は、途中で止まっていた。だから、空白ができた。その空白を埋めるように……“誰か”が別の物語を書き加えているのよ」
セリアは静かに言った。
「でも、あなたにはまだ《筆》がある。だったら、取り戻せる。あなた自身の“物語”を」
《魔属の筆》が、夜風の中で静かに光った。
それは、まるで――彼に問いかけているようだった。
“君は、どんな未来を描く?”