第7話 『精霊の森と嘘つきの剣士』
ロゼリナを発って三日。
一行は、濃霧に覆われた深き森へと踏み込んでいた。
ここは《精霊の森》――かつて水と風の精霊が共存し、人が踏み入ることを拒む神域とされていた場所。
空気は湿って重く、木々のざわめきさえ生き物の声のように聞こえる。
「……まるで、別世界みたいだな」
良介は吐息と共に呟いた。
靴の下で苔がしっとりと潰れる。
見上げれば、陽光は樹海の上で遮られ、木漏れ日も届かない。
水気を含んだ霧が肌にまとわりつき、現実感を奪っていく。
「ここが“精霊の棲む場所”っていうのも、納得だな……」
だが、彼にはわかっていた。
(この森……俺、設定だけ書いて、細かい描写は残してなかった)
にもかかわらず、この光景は――まるで誰かが“執筆を代わりに終えた”かのように完成している。
静謐な自然音、浮遊する霊気の粒、肌を刺す微かな魔力の圧。
すべてが、“本物”として彼の前に存在していた。
「気を抜くなよ」
前を歩くカイが、立ち止まらずに言った。
右手に構えた大剣の刃が、ほんのり赤熱を帯びている。
「この辺、火が嫌がられてる。精霊が近い証拠だ」
「火と精霊って、相性悪いんだっけ?」
「ああ。だからこそ、ここには“炎の剣士”なんて歓迎されない」
カイはそう言いながらも、笑わなかった。
むしろ、その言葉にはどこか“自嘲”めいた響きが混じっていた。
しばらく歩いたあと、良介はふとカイに声をかけた。
「なあ、昨日の話なんだけど……」
「妹のことか?」
カイは先に切り出した。
そして、木の幹に背を預け、静かに呟いた。
「俺さ、あの話……嘘なんだ」
「……嘘?」
「あんな設定、最初はなかった。目覚めた時、周りがそう言ってた。ギルドの連中も、旅の商人も。“あの少年は、妹を殺されて復讐に生きる剣士だ”って」
良介の背筋に冷たいものが走る。
「でも俺自身は、その妹の顔も名前も……記憶にない」
言葉を切ると、カイは苦笑を浮かべた。
「だからさ、思ったんだ。いっそ“演じてやる”って。
どうせ俺は、そういう役割でこの物語に出てきたんだろうってな」
それは、冗談ではなかった。
彼の声には、“自分自身を信じられない者”の哀しみが滲んでいた。
良介は、言葉を失った。
(カイもまた、“書き換えられた側”……?)
誰かによって与えられた“偽りの動機”。
もしそれが事実なら、彼は“物語の中の人間”ではなく、“物語に囚われた人間”だ。
そのとき――
ふわりと、風が流れた。
森の奥から、微かな羽ばたきと水の波動が混じった音が届く。
「……聞こえたか?」
カイが剣を構え直す。
リエーナも魔力の粒を周囲に展開し、探知に集中する。
「……あっち。間違いありません。精霊の波動です」
「よし、行こう!」
三人は音のする方へ駆け出す。
深い霧の中を抜けたその先――そこには、泉のほとりが広がっていた。
光の届く開けた空間。
そして、そこに――
「……誰か、倒れてる……!」
良介が駆け寄る。
そこに横たわっていたのは、銀髪の少女だった。
小柄な体に水色のローブ。胸元には淡い青光を放つ水晶が埋め込まれている。
「……生きてる?」
「微かに息をしています。魔力の枯渇と、精霊との同調崩れ……!」
リエーナが治癒の魔法を展開する。
その手が触れた瞬間――少女の身体から、柔らかな水霊の波動が広がった。
(これは……)
良介の頭の中に、《運命の書》が開かれる。
『森の嘘が、少女の真実を呼び覚ます。
書かれなかった者の記憶が、今、芽吹く。』
「……また、“書かれてなかった者”……」
少女の顔には見覚えがない。
自分の物語には登場していない、はずの存在。
けれど――確かにここにいる。
少女のまぶたが、かすかに震えた。
唇が微かに動き、か細い声が洩れる。
「……セリア……」
それが、自らの名前だと告げるように。
霧が晴れ、風が流れる。
そして物語はまた一つ、予定外の章へと――進みはじめていた。