第十話 セレネ
月面観測所は円盤型をした建物だ。月のクレーターの淵にあり、外から見ると月に着陸した宇宙船のようだった。
ラジオたちが階段を上がると、壁際にチャンドラが背中を向けて立っていた。壁は全てガラス張りで、正面には巨大な月のクレーターが見える。さらにその先には地球、そして永遠と広がる宇宙が続いている。
チャンドラは外を見つめたまま、ラジオたちの方に振り向きもしなかった。
「チャンドラさん。ペンダントを返してもらいに来ました」
ほんの数秒、沈黙が流れた。
「ラジオ君か。今日の太陽フレアの影響はすごいね。地球にオーロラが出てるよ」
チャンドラはガラス越しの地球を見ているようだった。
「なんで僕の石を偽物にすり替えたのですか」
チャンドラはこの問いかけを聞くと、ゆっくりと振り返った。昨日とは全く違う大人が見せる無表情の迫力にラジオたちは後ずさりしそうになった。
「偽物? どういうことかな」
「さっき博物館へ行って、サムさんから石を受け取ったんですが、成分が違いました」
「これ、偽物とすり替えるとなると犯罪ですよ」
ミヅキの言葉で、チャンドラの目つきがますます鋭くなっていった。
「言いがかりはよしてくれ。きちんと夕方に本物を返すつもりだった。サムが渡したのは、私が昨日作ったレプリカだよ。彼が間違えたんだろう」
チャンドラが昨日見せた笑顔をすぐに作り出した。
「じゃあ、チャンドラさんがあのレプリカの中にニッケルを混ぜたってことですか?」
「ニッケル……。ああそうだよ。たしかに少し配合したかな」
ラジオの肩からロックが飛び出して、何かのデータを映した。
「いえ。あの石の中にはニッケルは入っていませんでした。チャンドラ博士、ひっかかりましたね」
ミヅキも混乱したようにロックの方を見た。さっき博物館でサムに言ったことと違う。
「ニッケルが入っていたって言うのはロックの噓なんだよ。それでサムさんも、チャンドラさんも引っかけたってわけ」
ラジオがミヅキにこっそりと秘密を打ち明けた。さっきの車の中でロックが教えてくれたことだったが、運転に夢中になっていたミヅキには伝わっていなかった。
チャンドラの笑顔がまた消えると、今度は眉間にしわを寄せてラジオたちをにらんだ。
ラジオののどが急速に乾く。チャンドラの静かな怒りに当てられて、何もできない。チャンドラはほんの少しうつむいたかと思うと、ポケットからラジオのペンダントを取り出した。
「本物のルナタイトを混ぜてまでプリントアウトしたのにな。つまらない嘘に引っかかったよ。……これはお返しするよ」
チャンドラがラジオに近づき、ラジオの手にペンダントを返した。
「チャンドラさん、なんでこんなことを? そもそもこの石に何か秘密があるんですか?」
石を間にはさみ、チャンドラとラジオの視線がぶつかった。お互い目をそらさなかった。
「……この石をわれわれは、セレネと呼んでいた。太陽の活動が活発になると、エネルギーがたまるんだ。まさに今日のようなときにね。これは現在の地球には古く、そして早すぎるものなんだ。触れてはならない。」
チャンドラが「ライトオフ」と言うと観測所の明かりが消えた。部屋が真っ暗になると、窓の外の月面風景が際立って見える。
観測所の外に広がるすり鉢のような巨大クレーター。静かな月の大地をぽっかりとえぐっている。
「この巨大クレーターはセレネが原因で作られたんだ」
チャンドラが遠い昔のことを思い出すように話し始めた。
「この小さい石が原因? どういうことですか?」
「セレネは親指くらいの大きさで今の月の基地の電力一か月分をまかなうことができる。エネルギーという面だけで言えば、非常に優れた発明品だった。エネルギーだけではない。生活のいたる部分にセレネが浸透していった。その使い方は実に多様だった。しかし……」
チャンドラは続きを言うことをためらっているようだった。
「強大な力はいずれ人類を飲み込んでしまう。最も栄えていた都市を一つ失うことは簡単なことだった。このクレーターがその都市の成れの果てだよ」
「じゃあ、やっぱり月に文明があって、そこに人が住んでいたってこと? その月の都市もセレネの暴走で失われてしまった」
ミヅキの推理にチャンドラは「そう」だとも「ちがう」とも答えず、ただ目をつぶるだけだった。
「その石で新しい月の世界を、さらに言えば地球を壊したくはない。だから私は偽物とすり替えて、本物のセレネを封印しようとしたんだよ」
ラジオは手の中にある石を握りしめた。
「なんでぼくの母さんがそんな石を持っていたのですか?」
「分からない。ただ、もし君の母さんの中指の爪に三日月の模様が入っていたら……」
チャンドラの言葉を遮るように、ラジオの手の中から光が溢れだした。初めて月に来た時よりもずっと強い光だった。
光が辺りを包んだ。ラジオはまぶしくて目を閉じた。あまりに強い光だったが、春風のような暖かさもある。その時、またあの声が聞こえた。