《第一章》第6話:静寂の決意
高い天井から吊るされたシャンデリアが、朝の光を鈍く反射していた。
広すぎる空間が、二人の距離を際立たせている。
「今朝の剣術の稽古は見事だったぞ」と父は優雅にナイフを動かしながら言った。
その視線は俺ではなく目の前の皿に落ちたままだ。
「だが、力の加減を誤ると危険だ」
「申し訳ありません」
俺は反射的に背筋を伸ばす。
七年前から、父はより一層厳格に俺の教育に携わるようになった。だが、その分だけ心の距離は広がったように感じる。以前のように肩を並べて庭を散歩することもなくなった。
朝日がステンドグラスを通して、テーブルクロスの上に色とりどりの光の模様を描き出す。母が家にいた頃は、この模様を指さして笑い合っていたらしい。
それがいまは、沈黙に色を添えるだけ。
「いや、謝る必要はない」
珍しく柔らかな口調で父が続ける。
「ただ、お前にはまだ若さがある。焦る必要はないのだ」
静かな朝食が続く。
父は何度か俺の方を見ようとしては、また黙って料理に目を落とす。
指先がテーブルクロスの端を無意識に弄り、落ち着かない空気が漂う中。
「お前も、行くのか」
突然の問いに、俺のフォークが皿を打つ微かな音が、張り詰めた空気を鋭く裂いた。
その短い音の余韻が、言葉にならない緊張を部屋に満たす。
「……父さんは何を」
言葉を途中で飲み込む。父の表情から、彼が何かを察していることは明らかだった。だが、どこまで知っているのか、そして今、何を聞こうとしているのか、確信が持てない。
父は難しい顔を浮かべ、ただ黙って料理を口にした。
朝日に照らされた横顔には、普段は見せない心配の色が浮かんでいる。
(父さんは俺たちの目的を、知っているのだろうか……)
使用人たちが控えめに動く中、空白の三つ目の席が、朝の光を受けて妙に目立っていた。二人での食事になって、父との会話はますます少なくなった。その姿に、いなくなった妻の面影を見ているのかもしれない。
そこに置かれた空の皿と銀の食器。それは死者への敬意なのか、それとも生者の未練なのか。答えは、父の中にしかない。
父は立ち上がると、「領地の政務があるので、これで失礼する」と告げた。
いつもより長く俺の顔を見つめ、何か言いかけては止める。
そんな父の様子に違和感を覚えながらも、俺の頭の中は既に夜の作戦で満ちていた。
(もし父さんが知っていたとしても、今更引き返せない)
その思いが脳裏をよぎる中、父の眼差しが心の奥に刺さった。
「無理はするな」
最後にそれだけ言い残し、父の背中は扉の向こうへと消えていった。
その言葉には、普段の厳格さではなく、どこか諦めと心配が混じっていた。
だが今の俺には、目の前の作戦のことしか頭になかった。
それでも心の片隅で、父との溝を埋めることができなかった後悔が小さく疼いていた。
───
昼下がり、書斎に集められた情報が机の上に広がっていた。
書斎の入り口には影が薄く張られ、この部屋での会話は外には漏れない。
「潜入経路は三か所」とセバスチャンは影で作られた立体地図を指さした。
「実際の進入ポイントは、当日の警備配置で判断なさってください」
影が織りなす立体図には、七年の歳月をかけて収集した情報が詰め込まれている。地下通路、警備の交代時間、そして子供たちが閉じ込められている可能性のある場所。
前回の作戦では、一歩間違えたために失敗した。その時の記憶が蘇る——闇夜に紛れて潜入したものの、想定外の警備に遭遇。子供たちを逃すことはできたが、首謀者を取り逃がしてしまった。あの時の悔しさが、今回の綿密な計画につながっている。
「まずは子供たちの救出を」
俺の言葉に、リリアナが静かに頷く。
「証拠の押収は、その後でかまいません」
セバスチャンの声に、一瞬だけ聞き慣れない響きが混じった。
遠くに語りかけているような口調。そして、何かを知っているかのような視線。
まるでそこに誰か"いる"ことを前提にして話しているようだった。
(セバスチャンは何を...?)
俺は一瞬眉をひそめたが、彼の穏やかな表情からは何も読み取れなかった。だが、それ以上の違和感を探る余裕はなかった。
「では、私は屋敷で待機し、不測の事態に備えております」
セバスチャンは一礼して、穏やかな笑みを浮かべる。
「どうかお気をつけて」
「リリアナは必ず剣を携帯すること」という俺の言葉に、リリアナは首を傾げた。
「なぜですか? 私は魔法も使えますし、そこから剣を作り出すこともできます」
自信ありげで、少し不満そうに語る彼女の瞳を見つめて、俺はゆっくりと語り始める。
「確かにリリアナの魔法は最強クラスだ。ただし魔法が常に使えるかは分からない」
彼女は頷きながら、俺の言葉を待つ。
「もしもリリアナの仲間が人質に取られていたとき、魔法を使う余裕なんてないんだよ」
その言葉に、リリアナの表情が一瞬だけ曇る。
孤児院での記憶が、まだ彼女の心に深く刻まれているのを感じた。
「...分かりました」と彼女は静かに頷き、腰に下げた剣の柄に手を添える。
「これが、大切な仲間を守る最後の切り札になるということですね」
「ええ、それに」とセバスチャンが穏やかな口調で言葉を継ぐ。
「お嬢様の剣術は、私が保証できるほどの腕前です」
「まったく、お二人とも過保護なんですから」
照れ隠しのように言いながら、リリアナの瞳には確かな決意が宿っていた。
作戦の確認は、夕暮れまで続いた。
───
「きっと、また光が消えるんだ」
薄暗い地下室の隅で、小さな少女が膝を抱えて震えている。
一週間前に連れてこられたという彼女の声は、かすれていた。
「でも、大丈夫。影の人が来てくれるよ」
隣の少年が囁く。「前にも、影の人が助けに来たって、みんな言ってた」
「影の人が、本当にいるの?」
「うん。でも、見つかっちゃダメなんだって」
そうして子供たちは暗闇の中で、目に見えない希望を抱きしめていた。
───
夕闇が深まる頃、リリアナと俺は最後の準備を整えていた。
薄絹のマントで身を包み、それぞれが必要な道具を確認する。
「以前の作戦のような失敗は、もう繰り返さない」
俺が無意識に呟くと、リリアナは静かに振り返った。
「あの時は、準備不足だったのよ」
彼女は言葉少なに応える。「今回は違う」
三ヶ月前、似たような密売組織を追った時のことだ。子供たちを救出する直前、不意の落とし穴に嵌り、作戦は水泡に帰した。幸い命に別状はなかったが、その時の挫折感は今も心に残っている。
「今回は、影の範囲を広げすぎないことが大切だ」
俺は自分の影を指先で操りながら言う。「前回のように、影が薄まって制御が効かなくなるのは避けないと」
リリアナは静かに頷き、腰に下げた剣の柄を確かめる。
「あなたはいつも、全てを自分で抱え込もうとする」
その言葉に、俺は一瞬動きを止めた。
「でも、二人だからこそできることもある」と彼女は続ける。「それを忘れないで」
窓の外では、月が雲に覆われたり顔を出したりを繰り返していた。まるで天さえも、この夜の作戦に緊張しているかのように。
「本当は……怖いの」
リリアナの声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
俺は驚いて彼女を見た。普段は強がりのリリアナが、弱音を吐くなんて珍しい。
「でも、それ以上に、あの子たちを放っておけないわ」
彼女の瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。七年前の彼女からは想像もできない強さ。
「俺も怖いよ」
素直に認めると、少しだけ肩の力が抜けた。「だからこそ、計画は完璧にした」
二人は無言で見つめ合い、そして軽く頷き合う。
言葉以上の信頼が、その仕草に込められていた。
夜風が窓を揺らし、影が床に揺れる模様を描き出す。
俺たちの身体は成長していないかもしれないが、心と絆は確実に強くなっていた。
「行こう」
短い言葉と共に、二人は闇へと身を滑らせた。
月明かりに照らされた石畳の上を、二つの小さな影が素早く移動していく。
風が運ぶかすかな鐘の音が、まるで作戦の始まりを告げるかのようだった。
人目につかないよう裏路地を抜け、目的地へと向かう二人。
その姿は闇に溶け込み、やがて夜の帳の中に消えていった。
───
「剣の柄が手に馴染まない」
リリアナが小さく呟いた。
「それとも、私の手が震えているだけかしら」
いつも強気なリリアナが、こんなふうに不安を漏らすのは珍しい。
「大丈夫」
俺は彼女の肩に軽く手を置く。「この先で待っているものが何であれ、俺たちは二人だ」
リリアナは短く息を吐き、決意を新たにするように頷いた。
「子供たちのために──そして俺たち自身のためにも」
月が完全にその姿を闇に溶かし込むと、二人は同時に動き出した。
影と共に、裁きの夜が始まろうとしていた。