《第一章》第5話:静かなる準備
※本作品は異世界転生ファンタジーです。
※主人公最強/チート要素含みます。
※残虐表現、死亡描写を含む場合があります。
書斎に積み上げられた作戦書の山を見つめながら、俺は影を机上の図面に這わせていく。
七年の歳月が経っても変わらぬ小さな手が、月明かりに照らされる。
(七年か...前世の俺なら、こんな重圧に耐えられなかっただろう)
成長しない体は、かつては鏡を見るたびに絶望の源だった。だが今は、この小さな手で成し遂げようとする正義の方が遥かに重い。
書斎の窓から差し込む月の光が、机上に広げた孤児院の見取り図を照らしている。
そこに市場の地図、警備兵の配置図、裏路地の経路図が重なる。
影の触手がそれらを繋ぎ、一つの作戦図として形を成し始めていた。
「六十七案目にして、ようやく形になってきたか」
複数の影を同時に操り、それぞれが情報を伝達する媒体としても機能するようになった。体は成長しなくとも、技術と知恵は着実に積み重ねられていく。
あの夜、初めて影の力を解き放った時の記憶が蘇る。
暴雨の中、叫び声に導かれて駆けつけた裏路地。子供が密売人に連れ去られるところだった。「助けて!」と叫ぶ小さな声に応えようと踏み出した足が泥にはまり、間に合わなかった。怒りと無力感に打ちのめされた瞬間、影が初めて俺の意志に応えた。
だが制御できない力が暴走し、救出しようとした子供までも恐怖に満ちた目で俺を見上げた。「化け物…」とつぶやいた声が、今でも耳に残っている。
いつの間にか俺は、壁に掛けられた鏡に映る自分の姿を見つめていた。七年前と変わらぬ少年の顔。だが、その瞳の奥には、かつての迷いはない。
今の俺の影は冷静な判断と確かな技術で、俺の意志そのものとなっている。
「相変わらず器用なことですね」
優雅な足取りでリリアナが入ってきて、新しい書類を差し出す。
彼女もまた、変わらぬ愛らしい容姿のまま。
だが、その瞳の奥には、確かな成長と覚悟が宿っていた。
七年前、孤児院へ向かった夜、彼女の目に宿っていた恐れと希望の入り混じった表情を今でも覚えている。月明かりに照らされた彼女の翡翠色の瞳に映る不安。「本当に上手くいくの?」と囁いた声の震え。
今のリリアナには、かつての不安げな表情はない。その代わりに、静かな炎のような決意が宿っている。いつの間にか、彼女は俺の右腕となり、時に冷静な判断で俺の暴走を止める存在になっていた。
「これもリリアナと一緒に鍛錬を積んだ結果だよ」
実際、リリアナとの特訓は確かな効果をもたらした。最初は怒りのままに暴走した影、同じ形状に変化させることすらできなかった影――今では、複数の形状に変形させ、精密な操作すら可能になっている。
「覚えてる? 最初の頃は、影を剣の形にするだけでも一苦労だったわね」リリアナが微笑みながら言った。「あなたが『もっと鋭く!』って叫んでいるのに、影が丸まってボールみたいになって…」
「あ、あれは言わないでくれよ」俺は思わず赤面しながら苦笑いを浮かべる。
「でも今は違う」彼女は真剣な表情に戻った。
「あなたの影は、もはやあなた自身のように精密に動くわ」
リリアナの言葉に、俺はそっと影を見た。
指先の動きひとつで、刃にも盾にも変わるそれは、かつての“暴走”とは違う。
ようやく、自分の力と共に歩けるようになった気がした。
(リリアナがいなければ、ここまで来られなかった)
彼女は単なる許嫁ではなく、俺の弱さを知り、それでも共に立ち向かってくれる唯一無二の存在になっていた。言葉にはしなくとも、彼女との絆は七年の間に深まり、まるで影と光のように互いを補完し合う関係になっていた。
「今月も三人の子供が『消えた』そうね」
リリアナの声が、資料に視線を落としたまま震える。施設から失踪した子供たちの名前が並んでいる。本当は失踪などではない。奴隷として売られたのだ。
「エマ・ホーキンス、10歳…」リリアナの指が一つの名前の上で止まる。「この子、わたしが先月、読み書きを教えていた子よ」
彼女の声には怒りが滲んでいた。手元の紙面を強く握りしめる指に力が入る。
「『もっと本が読めるようになったら、自分の名前を書いた手紙を両親に送るの』って言っていたわ。両親が迎えに来ると信じていた…なのに…」
静かな怒りに震える彼女の肩に、俺は手を置く。彼女は深呼吸をして、再び冷静さを取り戻した。
かつて俺は、過去の憎しみだけで動いていた。しかし今の俺の怒りは、目の前の不正に向けられている。七年前に救い出せなかった子供たちのことを思うと、今でも胸が締め付けられる。
「失礼いたします」
静かにノックの音がして、セバスチャンが入室してくる。
白髪が増えた執事長は、相変わらず優雅な立ち振る舞いのまま、追加の情報を持ってきていた。
「坊ちゃま、お嬢様。深夜の作戦会議とは、相変わらずですね」
穏やかな叱責の中に、どこか懐かしむような温かみのある声音。セバスチャンは七年間、俺たちの行動を見守りながら、時に助言を、時に静かな支援を続けてくれた。父から隠れて行動する際も、巧みに取り繕ってくれた彼の存在は、計り知れない。
「今夜も遅くまで」彼はティーカートを静かに押して入ってきた。「カモミールティーをお持ちしました。心を落ち着かせるのに良いでしょう」
「ありがとう、セバスチャン」俺は感謝の意を込めて頷いた。「君はいつも俺たちの状態を見抜いているね」
「それが執事の務めでございます」彼は微笑みながらティーカップに湯気の立つ茶を注いだ。
「セバスチャン」リリアナが急に声をかけた。「あなたは私たちの…この状態について、何か知っているのではありませんか?」
老執事の手の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。それから再び、何事もなかったかのように茶を注ぎ続ける。
「あの夜から、お二人は随分と成長されました」
老執事の瞳には、深い慈愛の色が宿っている。
「体は変われずとも、その内に秘めた力は確実に」
その言葉に、俺とリリアナは思わず顔を見合わせる。セバスチャンは、俺たちの成長が止まっていることを知っていたのか。
「セバスチャン、君は……」
「私は、ただの老執事です」
穏やかな微笑みの裏に、何か深い意味が隠されているように感じた。七年間、彼の言葉には常に示唆が含まれていた。それが何を意味するのか、まだ完全には理解できない。
「それにしても」セバスチャンは窓辺に立ち、月を見上げた。「月の満ち欠けは変わらぬ周期を刻み、季節もまた巡るものです。しかし、その中にあって変わらぬものの価値は、時に見過ごされがちですね」
彼の瞳には、数え切れないほどの月を見てきたような古さと深みがあった。その姿は、単なる老執事のものとは思えなかった。
「セバスチャン、あなたは一体…」
「ですが、この老体にもまだ若干の判断力は残っております」
セバスチャンは新しい情報の書類を差し出しながら、静かに付け加えた。
「時には、止まっているように見えることにも、意味があるものです」
その謎めいた言葉の真意を問う前に、セバスチャンは優雅に一礼して部屋を後にした。
静寂が戻った書斎で、俺たちは言葉を失う。
セバスチャンの去り際の言葉が、まるで暗号のように心に残っていた。
(止まっているように見えることにも、意味が……)
窓から差し込む月の光が、彼の遺した書類を照らす。それは、俺たちが長く追っていた密売ルートの最終的な接点——王国上級貴族の邸宅と孤児院を結ぶ秘密の通路の詳細だった。
「これは…」リリアナが息を呑む。
月明かりだけが照らす書斎で、セバスチャンが残していった情報に目を通す。
その内容が、七年をかけて築いた計画の最後のピースを確かに埋めた。
「上級貴族が関わっているとすれば…」リリアナの声が沈む。「私たちだけでは対処できないかもしれない」
「だからこそ、影の力が必要なんだ」
俺は机上の影を集め、手のひらで小さく凝縮させる。その動きは七年前には想像もできなかった精緻さで、まるで生き物のように息づいていた。
彼女は静かに俺の横に立ち、肩がわずかに触れる距離で資料を共に見つめている。かつては距離を保っていた彼女が、今では自然と寄り添う存在になっていた。その変化は言葉ではなく、こうした何気ない仕草に表れている。
「準備は整いましたわ」
彼女の声には、七年前には感じられなかった確信と穏やかな強さがあった。翡翠色の瞳が月明かりに輝き、その美しさは七年前と変わらない。だが、その奥に宿る意志の強さは、確実に成長していた。
「ああ。いよいよ動く時が来たようだ」
書斎の窓から見える夜空に、雲が月を覆い隠していく。一瞬、部屋が闇に包まれ、俺たちの姿を影が飲み込んだかのように見えた。
そして再び月が顔を出すと、書斎には俺たちの影だけが残されていた。
月明かりに照らされた俺たちの影が、変わらぬ大きさのまま、静かに重なっていく。
成長を止められた体に込められた痛みを抱えながら、影からの裁きが始まろうとしていた。
七年という時の流れは、体ではなく心を成長させた。前世の弱さを抱えた少年は、今や静かな決意を秘めた影の主となっていた。
人知れず舞い上がった一枚の紙が、月明かりに照らされながら宙を舞う。
「エマ・ホーキンス」——それは、誰にも届かなかった手紙の代わりだった。
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次回更新:5月13日(火)19時