《序章》第1話:影への目覚め
※本作品は異世界転生ファンタジーです。
※主人公最強/チート要素含みます。
※残虐表現、死亡描写を含む場合があります。
後悔はなかった。
空の彼方へと身を投げた瞬間、冷たい風が肌を切る。
それだけが、妙に現実味を帯びて感じられた。
「ドンッ」
呆気ない音と共に、世界が遠ざかっていく。
その中で、ひとつだけ強く心に残った。
「……ごめんな、母さん」
最後に浮かんだのは、優しい笑顔。
いつだって味方でいてくれた母。
他の誰に拒まれても、否定されても、母さんだけは俺を信じてくれた。
いじめられた時も、一人で泣いていた夜も、ずっと。
だからこそ、俺が壊れていく姿をこれ以上見せたくなかった。
彼女の涙を見るくらいなら、いっそ——。
そう思っていた——その時。
一瞬だけ、世界の色が歪んだ。
空の影が、俺の影を飲み込むように揺れた。
……それは、死のはずだった。
意識が沈む暗闇の中、どこかで"何か"が揺らめいた気がする。
声も形もなかった。
ただ——冷たい影のような何かが、俺に触れた。
まるで俺だけを選び、引き寄せるかのように。
奇妙なことに、その冷たさは恐怖ではなく、懐かしさを伴っていた。長い時を経て帰るべき場所に戻ったような感覚。
次に目を開けた時、そこには見知らぬ光が差し込んでいた。
───
「んっ……うぅ……」
眩しい光に意識を引き戻され、喉から呻き声が漏れる。
頭が重い。体の感覚がどこか違う。
(あれ、ここは天国なのか……?)
柄にもなくそんな考えが頭をよぎる。重たい瞼を開くと、見慣れない繊細な模様が散りばめられた天井が広がっていた。絵画のような精巧さで彫られた天使や花々の模様。
「お目覚めですか、坊ちゃま」
老齢のようでいて威厳に満ちた声が聞こえる。目を凝らすと、上質な燕尾服に身を包んだ執事らしき老人が、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。白髪に覆われた顔には皺が刻まれているが、その瞳は鋭く、知性に満ちている。
「こ、ここは……?」
戸惑いのままに発した言葉に、老人は眉をハの字に寄せる。
「おやおや、まだ寝ぼけていらっしゃるのですか?」
心配そうな表情を浮かべて続ける。その目に浮かぶ懸念は偽りのないもので、なぜか胸に温かさが広がる。
「ここはアーサー家の坊ちゃまのお部屋です。外で意識を失っていた坊ちゃまを、私どもがお部屋まで運んできたのですよ」
俺は周囲を見回した。豪奢な調度品、大理石の暖炉、絹のカーテン、そして自分が横たわる天蓋付きのベッド。触れてみれば確かに実体があり、幻ではない。
(そうか、俺は生まれ変わったのか)
記憶の断片が少しずつ紡がれていく。セントラル王国、辺境伯爵家、アーサー家の一人息子……。そして自分の名前―アーサー・ヴァン・シャドウ。五歳。
なぜか自分の記憶とは別の情報が、頭の中から次々と浮かび上がってくる。まるで誰かの記憶が、自分の意識と混ざり合うように。
「それで、本日のご予定になりますが」
執事が静かに話し始める。その姿勢の良さと物腰から、長年にわたり家に仕えてきた忠実な存在であることが伝わってくる。
(この人の名前、本当にセバスチャンって言うのか)
その考えに思わず笑みがこぼれそうになるのを堪える。
「午前中より、剣術と魔法の基礎訓練を開始する運びとなっております」
(剣術に魔法? ファンタジー漫画の世界じゃないんだから……)
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。頭の中がぐるぐると回り、現実感が薄れていく。ここは本当に異世界なのだと実感する。驚きに目を瞬かせる俺の表情を見て、執事は申し訳なさそうに付け加える。
「坊ちゃまが体調を崩されていたので、開始を遅らせることも可能ですが……」
「い、いや、大丈夫だよ」
自分の声に驚いて、思わず言葉に詰まる。確かに五歳児の高くか細い声だ。前世の低い声に慣れていた俺には、自分の声さえ別人のように感じられた。胸に抱いていた重さと暗さが、この体にはない。
服装を整えてもらい、執事の後に続いて中庭へと向かう。窓の外に広がる庭園の美しさに息を呑む。まるで絵画から抜け出したような風景が、朝日に照らされて輝いていた。
(これが俺の……いや、アーサーの日常なのか)
長い廊下を歩くたび、この館の規模に圧倒される。壁には肖像画が並び、どれも厳格な表情の貴族たちだ。きっとアーサー家の先祖なのだろう。彼らの冷たい視線が、まるで「お前は相応しいのか」と問いかけてくるようだ。
一瞬、廊下の床に自分の影が不自然に長く伸びたように見えた。振り返ると、ただの朝日の陰影だった。それなのに、胸の鼓動が微かに速くなる。
中庭には数名の人物が待機していた。その姿勢の良さと鋭い眼差しからして、ただの教師ではないことは一目で分かる。彼らの腰には剣が下がり、手には杖や本を持っている。
「では、まずは本日の魔力測定からとりかかりましょう」
魔法教師と名乗る初老の男性が、透明な水晶を差し出してくる。真昼の光を受けて、水晶は虹色に輝いている。
(これは何をすれば……どうすれば……)
戸惑いながらも、差し出された水晶に恐る恐る指先を触れる。前世では、こんな体験はできなかった。胸が高鳴る。
その瞬間。
眩いばかりの光が水晶から放たれ、まるで太陽が目の前で爆発したかのような光景が広がった。光は水晶から渦を巻きながら噴き出し、周囲の空気を震わせる。
「こ、これは……!」
魔法教師が目を見開き、声が震える。その顔から血の気が引き、瞳孔が広がっている。
「SS級の魔力ですぞ!? しかも、これほどの純度とは……!」
周囲がざわめく中、俺は状況が飲み込めずに困惑していた。水晶から放たれる光は次第に色を変え、最後には漆黒の光——矛盾した表現だが、闇そのものが光を放つような不思議な輝きを帯びていく。
(SS級? 純度? 何が起きているんだ……)
水晶の中で渦巻く闇の光に違和感を覚える。まるで自分の内側に潜む何かが姿を現したかのように、背筋に冷たいものが走りながらも、胸には高揚感が膨らむ。
光の渦の中に、うっすらと人の形が見えた気がした——ほんの一瞬、影絵のような姿と目が合い、言いようのない親密さを感じる。
水晶の周りの地面に、細い黒い糸のような何かが広がったが、誰も気にしていない。
教師たちは水晶の輝きに見とれ、周囲の異変には誰も気づいていないようだった。
「失礼いたします」
透き通るような清らかな声が聞こえ、俺は慌てて顔を上げた。
「お元気そうで何よりです。アーサー・ヴァン・シャドウ様」
優雅な立ち振る舞い、陽光に輝く美しく長い髪を揺らした少女が、俺の名前を呼びながらゆっくりと近づいてくる。エメラルドのような緑の瞳と、かすかに薔薇色を帯びた頬。その姿は同年代の子供とは思えないほど気品に溢れていた。
少女——リリアナと呼ばれる彼女は、一瞬だけ足元の黒い糸状のものに視線を向けたが、何も言わなかった。その代わり、彼女の眉が僅かに寄った。
「ご、ご機嫌よう、リリアナ。今日も美しいね」
言葉が自然と口から紡がれるが、緊張からか少しだけ言葉に詰まる。前世では決して口にすることのなかった丁寧な言葉遣いに、違和感を覚えながらも。彼女の存在感に、自然と背筋が伸びる。
「訓練をするなら、こちらのタオルをお使いになってください。汗臭い男性を好む女性はこの世界にはいませんわ」
少し毒を含んだ言葉と共に差し出されたタオルを、思わず受け取る。彼女の指先が一瞬だけ俺の手に触れ、その柔らかさに心臓が跳ねる。
「ごめんね、気を遣ってくれてありがとう」
前世の経験から、リリアナの行動が単なる照れ隠しであることは一目で分かった。誰かに親切にされることに慣れていないようだ。
「まぁ、皆様もお騒ぎしてる場合ではありません」
リリアナが一歩前に出て、凛とした声で場を制する。彼女の小さな体からは想像できないほどの威厳が滲み、周囲の大人たちさえ黙らせる力を持っていた。
「アーサー様の才能は別段珍しいことではありません。辺境伯家の血筋なのですから」
「おいおい、SS級が珍しくないって……」
「いくら辺境伯家とはいえ、そこまでの魔力は……」
周囲からの囁きが漏れる中、リリアナは一切動じることなく優雅に髪を撫でながら言葉を続ける。
「それより、せっかくの訓練の時間を無駄にするわけにはまいりません。アーサー様、基礎から始めましょう」
彼女の凜とした言葉に、周囲の教師たちも我に返ったように姿勢を正す。それぞれが慌てて剣や教材を手に取る様子に、彼女の影響力の大きさを感じる。
(なんて手際の良さだ……この子、本当に俺と同じ年齢なの?)
俺は感心しながら、リリアナの後に続いた。彼女の小さな背中が、なぜか頼もしく見える。
「では、まずは基本姿勢から」
剣術教師が磨き上げられた木刀を手に前に出る。その剣の持ち方や立ち姿から、並々ならぬ技量を持っていることが窺える。
「構えをご覧になって……」
その言葉が終わる前に、俺の体が意識に先んじて自然と動いていた。前世で習得した剣道の構えが、この幼い体でも驚くほど正確に再現されている。
手の位置、足の踏み方、背筋の角度——全てが無意識のうちに最適な形を取っていた。
「こ、これは……!」
剣術教師が驚きに目を見開く。その口が小さく開いたまま、言葉を失っている。
「以前とは見違えるようです。これほどの完璧な構え、どこで……」
(やばい、現世の俺は剣術が上手くなかったのか)
焦る俺の背後から、リリアナの静かな声が響く。
「さすがアーサー様ですわ。では、実践的な動きも確認してみましょうか」
そう言って彼女は木刀を手に取る。その所作は優雅で無駄がなく、見ているだけで息を呑むほどの美しさがあった。
彼女が小さな手で剣を構えた瞬間、空気が変わった。
「アーサー様、参ります」
開始の合図と同時に、風を切る鋭い音が耳に響く。彼女の動きは五歳児には到底不可能な速さで、水が流れるように無駄がなく、しなやかで致命的な美しさがあった。
(マジかよ、俺も一応剣道経験者なんだけど……こんな子供が!)
俺の剣が受け止めるたび、木刀のぶつかり合う乾いた音が中庭に響き渡る。型に忠実な俺の動きと、踊るように優雅に舞うリリアナの剣。どちらが実践的かは一目で明らかだった。
彼女の剣筋には無駄がなく、一振り一振りに意図がある。それは単なる才能ではなく、長年の訓練によって培われた技術だ。それを五歳の少女が持っているという矛盾に、言いようのない違和感を覚える。
激しい打ち合いの中、彼女の長い髪が舞い上がる。一瞬、耳の辺りに何か違和感を覚えたが、すぐさま次の攻撃への対応に意識を奪われた。彼女の耳が尖っているように見えた気がする——いや、きっと見間違いだ。
その時、奇妙な感覚が全身を駆け巡る。足元の影がわずかに蠢き、まるで俺の感情に呼応するように脈打っている。
打ち合いが激しくなるにつれ、その影はリリアナの方へと伸びていく。誰も気づかないこの変化は明らかに自然の法則から逸脱していた。恐怖よりも安堵感が強い——まるで長い間眠っていた何かが、ようやく目覚めたかのように。
「お見事です、アーサー様」
模擬戦が終わったにもかかわらず、息一つ乱さずにリリアナが言う。その姿は気品に溢れ、まるで戦いなど行っていなかったかのよう。ただ、その瞳の奥には、かすかな驚きが宿っていた。
セバスチャンが庭の隅で静かに見守っていたが、彼の視線が一瞬だけ俺の足元に向けられた気がした。彼の目には認識と警戒が混ざったような感情が浮かんでいたが、すぐに平静な表情に戻った。
「ですが、その構えでは右が少し空いてしまいます」
的確な指摘に、周囲の教師たちの表情が一変する。まるで自分たちより遥かに優れた剣術家を目の当たりにしたような、畏敬の眼差しだった。その視線の奥には、恐れに似た感情も垣間見える。
「お二人とも、お見事でした」
「常軌を逸した打ちあいと才能……」
「いや、才能という言葉では足りないかもしれん……」
教師たちの感嘆のささやきが中庭に広がる。その声には驚きだけでなく、不安も混じっている。
「当然のことです」
リリアナは髪を優雅に撫でながら、凛と答える。その仕草の裏に、何か隠し事をしているような微かな緊張を感じた。
「許嫁の男性に守られるようでは、女としての恥ですから」
その言葉に、中庭は静まり返った。
周囲の誰もが納得している。そういう世界なんだと、誰も疑っていない。五歳の少女がそんな言葉を発することさえ、当然のように受け止められている。
(……守られるのは、恥か)
なぜだろう。それが当然だというこの空気に、前世でも感じた居心地の悪さを感じる。誰かを見下す風潮、弱さを罪とする考え方。
弱いことは、本当に恥なのか?
俺が死んだあの世界も、そうだった。
そして──それで、誰が救われたんだ?
陽の光を浴びながら、そんな思いが胸を過る。前世で味わった苦しみを、これからも誰かが味わっていくのだろうか。強者が弱者を踏みつけ、弱者が互いを責め合うという、終わりなき連鎖。
リリアナの翠の瞳を見つめると、そこにも何か隠された影を感じる。彼女の強さの裏に、どれほどの痛みが隠されているのだろう。だからこそ、強さを求めるのかもしれない。
この世界は、きっと綺麗なままじゃいられない。
……なら、今度こそ穢れを見逃すつもりはない。
心の中で誓いを立てた瞬間、足元の影がわずかに濃くなり、脈打った。心臓の鼓動が強まると同時に、奇妙な安堵感が広がる。「そうだ、その通りだ」と誰かが囁いたような感覚。恐ろしいはずなのに、どこか懐かしい。
「アーサー様、次は魔法の基礎に移りましょうか」
リリアナの声が俺の思考を引き戻す。彼女の手が差し出され、その白い指先にはかすかな魔力の輝きが宿っていた。
「ええ、もちろん」
俺はその手を取った。小さくて冷たい、でも確かな強さを持った手。
その瞬間、黒い閃光が二人の手から走った気がした。リリアナの目が僅かに見開かれる。彼女も何かを感じたのだろうか。
二人の影が一瞬だけ交わり、そして元に戻る。
誰も気づかなかったその現象に、俺だけが言い知れぬ違和感を覚えた。
まるで——何者かが俺たちを見つめているかのように。
その視線は威圧的ではなく、どこか守るような、見守るような温かさを持っていた。
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