災厄と酩酊
コロンさん主催『酒祭り』参加作品です。
少々陰気で、人によっては気分が悪くなる描写があります。そういうもんだと思って読んで頂けるとありがたいです( ̄◇ ̄;)
酒は嫌な事を忘れさせてくれる。
だから俺は、酒を飲むんだ。
やっとの事でたどり着いたアパートの自室で、俺は汗でじんわり湿った靴下を脱ぐと、丸めて玄関廊下の隅へ放り投げた。7月のぬかるんだ空気が、底なし沼のようにアパートの一室を満たしていた。
食器が積み上げられたシンクの周辺には、ねばつくような臭いが漂っている。その中のグラスを強引に取り出し、スポンジに染みついた泡で雑に擦り洗うと、製氷皿の氷を割り入れた。
沈黙に亀裂が入るような音。
ペット容器のブラックニッカを注ぎ込んで、洗濯済みのバスタオルが乱雑に掛けられた食卓テーブルの椅子にへたり込む。そして、その熱い液体を喉に流し込んだ。
最近は最悪な事ばかりが続いている。
生意気な年下の店長、俺を怒鳴り散らす頭のおかしい客、しみったれた生活、愛していた恋人の裏切り。
そして、弱りきった俺を襲った、あの恐怖――
俺は身震いして、それら全てを紛らわさんとばかりに、ウイスキーを胃に流し込んだ。
空っぽの身体アルコールで満たされていくにつれて、不安な心も少しずつ和らいでいく。
それが心地よくて、俺は更に酒を煽った。
* * *
小一時間ほど前――
アルバイト先の居酒屋を出て、俺は夜道を歩いていた。
田舎の飲み屋街に灯ったスナックの明かりは、そろそろ消え始める時間帯だ。コンビニがある路地の角を曲がると、寝静まった住宅街を横切る暗く長い道が続いている。
街灯の明かりが闇の中に白い傘を作り、雨の中をはしゃぎ回るガキ共に似たウザったい蛾や羽虫が、傘の下を縦横無尽に飛び回っていた。
ふと、気が付いた。気が付いてしまった。
俺の後ろを着けてくる存在に……。
その存在は、人間の男の姿をしていた。
住宅街が作り出した夜に紛れるように、俺の数十メートル後ろ――おおよそ電柱2本分くらいの距離を置いて歩いている。
通る道がたまたま同じだけの、単なる酔っぱらいか、仕事帰りのおっさんに違いない。
そう思おうとしたが、それだけでは説明できない違和感が首をもたげる。
俺のスニーカーが地面を擦る音と、後ろの存在が放つ足音が、不自然なほどに重なっていた。それはまるで、俺と歩調を合わせているようにも感じられた。
俺は目線を空へと移す。
不安を更に煽るような、朧げに光る透明な月。
俺は呼吸が浅く早くなるのを感じた。
エロいケツした女じゃあるまいし、俺のあとを着ける理由など何一つ思いつかない。羽振りがいい格好もしていないし、誰かに恨みを買っているわけでもない。
じゃあ一体、何のために?
振り返って、大声で問いただしたい欲求に駆られる。でもその瞬間、今の均衡は朽ちた吊り橋のように崩壊して、俺は足元に開いた闇へと落ちていきそうな気がした。
なんなんだよあいつは。
ほんと、勘弁してくれよ。
俺は心の中で悪態を吐く。
なんで俺ばかり、こんな理不尽な目に合わなきゃいけないんだ?
あの年下の店長だってそうだ。
いつも俺がレジに入った時だけレジスターから小銭を抜き取っていに違いない。そして、会計が合わないのを俺のせいにして、震える俺を見下して楽しんでいるんだ。
あのクソ客だってそうだ。
俺に酒臭い息を吐き掛けて、罵詈雑言を叫び散らす。注文を間違えたのは俺のせいじゃない。お前の呂律が回ってないからだ。クソ客が叫び散らすから、その度に俺は店長に罵られ、そのストレスで満足に睡眠も取れない。
そして恋人だったあの女……。
数日前、あの女は弱った俺を裏切って、さらに追い討ちをかけてきた。二度と関わらないと誓った元彼と、密かに連絡をとってやがった。俺は泣きながら厳しく注意したけど、それっきりダンマリだ。
何故こんなにも、全てが上手く回らないんだ?
どこで、人生の歯車が狂ったんだ?
あの頃――子供の頃の俺は才能に溢れ、何にだってなれるような気がしていた。あのまま大人になれば、きっと俺はすごい事を成し遂げていたに違いない。
でもそうなれなかったのは俺を取り巻く環境のせいなんだって、youtubeで頭の良さそうな男が叫んでいた。環境とは家庭であり、親であり、先生であり、学校であり、友人であり、職場であり、恋人の事だ。
それらが俺の人生を、薄汚れた理不尽の色に塗り替えてしまったんだ。
背後に響く足音が、徐々に早まっていく。
さっきまで重なり合っていた二つの足音が、外れて、ズレて、歪みが生じていく。
まるで歯車が狂うみたいに。
背後の足音が、だんだんと大きくなっていく。
その恐怖に触発されて、理不尽な世界に対する言いようのない怒りが、頭の中を真っ赤に染めていく。
荒い呼吸音。
それが自分のものか、背後の存在のものか、よくわからなくなる。
隣に並んだそいつの横顔を、俺はどこかで見たことがあるような気がして――
* * *
俺は目を覚ました。
テーブルに突っ伏したまま眠ってしまったらしく、手元には氷が溶け切ったグラスが置かれていた。
ガチガチに固まってしまった両腕をテーブルから引き剥がし、鈍い腰の痛みを感じながら立ち上がる。
カーテンを開けると朝日が差し込んだ。
夏とはいえ、朝の空気は涼しい。窓を開けると、室内の澱んだ空気に、若草の匂いが混ざり込んだ。
グラスに溜まった琥珀色の水をシンクに捨てて、水をなみなみと注ぎ、喉を鳴らしながら一気に飲み干す。
ねばつく口の中が、さっぱりと洗い流される。
シャワーでも浴びよう。そう思ってバスルームの中折れドアを開けたところで、重たい臭いの塊が吐き出された。
ああ、そうだった――
俺はため息をついて、浴室に横たわる2つの死体を見下ろす。底に倒れている女は、すでに腐敗が始まっていて、あんなに魅力的に感じていた白い肌は赤黒く溶けていた。そして、そいつを押し潰すように、もう一つ死体の死体が重ねて置かれている。
押し潰されて滲み出た赤黒い液体は、俺にイタリアワインのブドウ踏みの光景を思い起こさせた。
色々と思い出してきた。
酒は嫌なことを忘れさせてくれるけど、無かった事にはしてくれない。酔いが覚めれば、また現実の続きが強制的に始まってしまう。
俺はテーブルの隅に置いてあったあの女のスマホを開いて操作する。
どこかで見たことのある顔だと感じたから、あの女の元彼だと思って、昨晩はついつい激昂してしまったんっだ。
スマホの写真と死体の顔を見比べる。
なんだよ、全然違うじゃねえか。誰だこいつ?
紛らわしい事して俺を煩わせるんじゃねぇよ、クソ野郎が。
バスルームのドアを閉めて、俺は再びテーブルに舞い戻った。
窓から流れ込む空気は、徐々に夏の熱気を帯び始めている。少し離れた国道から響いてくるのは、大型トラックの走行音と、バカな車のクラクション。
ああ、どうしよう。
本当に最悪だ。
この最悪を忘れるためには、また酒を飲むしかないか……。
理不尽に嘆く主人公。だけど自分の不幸に酔って、より最悪な理不尽を周りに振り撒いてるかもしれません。そんな教訓を込めて書きました。嫌な話ですね。