26.収穫期
「――以上、トリシア殿下の弱点を探ることはできませんでした」
第二妃宮の私室で、シャイナは壁際で報告を上げた侍女頭――ジェシカにティーカップを投げつけた。
ジェシカは少し横にずれ、ティーカップは壁に叩き付けられ砕け散る。
怒りで顔を赤く染めたシャイナが声を上げる。
「どういうこと?!
侍女も近衛騎士も、兵士も使用人さえも買収に応じないというの?!」
ジェシカが淡々と応える。
「はい。誰一人金品では篭絡できませんでした。
買収の話を持ち出すと、一様に軽蔑する眼差しをこちらに向けてまいりました。
あれはトリシア殿下に心酔しているのではないかと」
「あんな小娘に、近衛騎士さえも心酔したと、そう言ったの?!」
怒り心頭のシャイナを見て、ジェシカが小さく息をついた。
「私も一度お会いしましたが、トリシア殿下は柔らかな空気を身にまとうお方です。
あの方の周囲では不思議と気が安らぎました。
正妃でありながら、それを決して鼻にかけず誰にでも気さくに話しかけられます。
そういった振る舞いが周囲の人間を魅了しておられるのではないでしょうか」
――そんなの、ただの田舎娘ってだけじゃない!
爪を噛むシャイナが頭を悩ませた。
『トリシアが正妃に相応しくない』という噂を流布していたが、一時期を境にピタリと噂が途絶えた。
帝国議会も、ヴェラーニ公爵派閥が瓦解しエストラーダ侯爵派閥が主導していると聞く。
ウィンコット王国攻略も、そろそろ完了するという噂だ。
トリシアの失態を引き出そうとしたが、ことごとくが失敗に終わっている。
間もなく皇帝陛下が戻ってくれば、トリシアを陥れる機会はほぼ失われてしまうだろう。
――その前に、なんとしても失脚させてやる!
「ジェシカ! 第三妃宮へ行くわ!」
シャイナは一人、ベレーネに会うために第三妃宮へ向かった。
****
エストラーダ侯爵は順調に進行する帝国議会の様子を満足して眺めていた。
収穫期を終え、税収は減税令と戦費負担を差し引いても黒字になった。
昨年の二倍近い豊作に、領主たちはほくほく顔だ――ヴェラーニ公爵派閥を除いては。
ヴェラーニ公爵派閥は雨季にわずかなお湿りがあった程度で、壊滅的な打撃は免れなかった。
水源が枯れるほどのダメージではないが、収穫高は昨年の一割にも満たない。
派閥から離脱し、エストラーダ侯爵に支援を要請してくる領主も続出した。
彼らには派閥から余剰穀物を割安で回し、ヴェラーニ公爵の力を削いでいった。
ヴェラーニ公爵領からは領民も逃げ出し、周辺領主は着実に兵力を補充している。
公爵本人は議会参加どころではなく、金策に明け暮れているようだ。
重税を課していたヴェラーニ公爵への民衆の反感は根強く、暴動も起こっていると聞く。
これでは自慢の私兵団もまともに機能すまい。
政敵を確実に追い落とした実感で、エストラーダ侯爵は微笑みを湛えていた。
――それにしても、トリシア殿下のお力は恐ろしいものだ。
彼女に強い敵意を持ったがために、ヴェラーニ公爵は破滅に追いやられた。
彼女の意思ではなく、精霊の意思によって。
トリシア本人は精霊たちに頼み込み、わずかな雨を公爵領にもたらしたという。
精霊たちに嫌悪されると、トリシアの頼みですらその程度の恵みしか得られないということだ。
このことは既に社交界で噂になっている。
そのせいか、『トリシア殿下に正妃の資格なし』と口にするものは収穫期以降、ぱったりと途絶えていた。
悪口を言えば領地が凶作の憂き目に遭うと言われ、貴族たちはトリシアを恐れるようになっていた。
――これはこれで、なんとかしなければな。
民衆たちは減税令と豊作をもたらしたトリシアに対し、好意的なようだ。
それだけは救いと言えた。
エストラーダ侯爵はトリシアのイメージ回復策に、議題を放置して頭を悩ませていた。
****
第三妃宮に向かったシャイナを、ベレーネが応接間で迎えた。
「どうしたの? 何か用事かしら?」
シャイナが獰猛な笑みで応える。
「とぼけないで。トリシアを追い落とす方法は何かないの?」
ベレーネが困ったように微笑んだ。
「うーん、もうトリシア殿下に対抗するのは無理じゃないかしら。
貴族たちは彼女を恐れて、噂話すらしていないわ。
あなたお得意の戦法はもう通用しないわよ?」
「それならベレーネが動けばいいじゃない!
何よ、フェルランド王国王女の肩書は飾りなの?!」
ベレーネがクスリと笑みをこぼす。
「あらあら、属国となった故郷で王女だったから、なんだというのかしら。
今の私は第二側妃、帝国の妃よ?
帝国のために動くことはあっても、帝国を害するために動くことはないわ」
苛立った様子のシャイナが声を上げる。
「綺麗ごとはもうたくさんなのよ!
なんでもいいわ! 田舎娘を蹴落とす策を考えなさい!」
ため息とともにベレーネが応える。
「あなたも懲りないわね。
力の差を弁えた方が良いわよ?
相手は正妃で、豊作と凶作を与えることができる精霊巫女。
まともに相手をしても勝ち目はないわ」
歯を食いしばったシャイナが口を開こうとして、ふと真顔になった。
「……そう、『まともに相手をしたら』勝ち目がないのね」
「シャイナ? 何を考えているの?」
獰猛な笑みでシャイナが応える。
「あんたが知る必要はないわ。
いいヒントをありがとう、ベレーネ。
私が正妃になった暁には、週に一回ぐらいは皇帝陛下を貸してあげてもいいわよ?」
背中を見せたシャイナは、振り返りもせずに応接間から立ち去った。
――これでシャイナは自滅ね。馬鹿な人。
ベレーネは静かに紅茶を飲み、現状を鑑みる。
精霊という目に見えない無数の諜報員を抱えるトリシアに対し、対話で陰謀を相談するなど愚の骨頂。
今もこの場に居るであろう精霊たちを経由して、さっきの会話もトリシアは知ることができる。
シャイナが住む第二妃宮にも、精霊たちは居るだろう。
彼女の謀が成功する目は、万に一つもない。
――シャイナ、陰謀というのは密かに推し進めるものなのよ?
先日出した新しい手紙は、そろそろローラの元に届いているだろう。
ヴェラーニ公爵が落ちぶれる寸前の今、最後に使ってあげることにしよう。
彼女なら、トリシアの命と引き換えに身の破滅が待っていようと、躊躇うこともない。
失敗して元々の策だが、成功すれば正妃の座が空く。
シャイナの自滅が先に決まれば、残る妃は自分一人となる。
――できれば、シャイナには早く動いてもらいたいものね。
そして残った自分が正妃の座に収まる。
側妃もいなくなり、皇帝陛下の寵愛も独占できる。
失敗しても、側妃としていつかはお渡りがある。
男子を生めば、挽回のチャンスはあるのだ。
焦ることなどない。ただ密かに事を進めるのみ。
ベレーネは紅茶を飲み干すと立ち上がり、応接間を後にした。
****
私のところに、エストラーダ侯爵が訪れた。
応接間で彼とソファに座る。
「今日はなんの話なんですか?」
笑顔のエストラーダ侯爵が応える。
「どうですかトリシア殿下、社交界に出てみませんか」
「え、社交界ですか?」
エストラーダ侯爵が頷いた。
「ええそうです。
この前のお茶会で、中立派の貴族たちに恐怖を植え付けてしまいました。
ヴェラーニ公爵の凋落が後押しとなり、今や社交界では殿下を恐れる貴族ばかり。
これでは今後のためになりません」
「でも、私に招待状を出してくれる帝国貴族なんていませんよ?
私が招待状を出しても、来てくれないでしょうし」
「そんなことはありません。
今の殿下なら、招待状を出せば必ず応じてもらえます。
――そのくらい、あなたは恐れられているのです」
えー、そんなに?
その誤解は早く解いておきたいなぁ。
「どうしたらいいと思います?
社交界とか、まだよくわからなくて」
「間もなく皇帝陛下がご帰還されるでしょう。
それからすぐに戦勝と豊作を祝う夜会が開催されるはずです。
その場で殿下の誤解を解けばよろしいかと」
夜会、夜会かー。
苦手なんだけどなー。
応接間のドアがノックされ、侍女が入ってきた。
「失礼いたします。
シャイナ殿下からお手紙をお預かりしました」
差し出された手紙を受け取り、中身を見る。
「……お茶会の誘い? シャイナさんが?」
エストラーダ侯爵が眉をひそめて告げる。
「どうなさいますか。
シャイナ殿下には風説を流布した疑いがあります。
軽々しく参加すると、何が起こるかわかりませんよ」
「んー、でもお茶会なら、まだ気楽に参加できるし。
夜会に参加する前に練習しておくのも悪くないんじゃない?」
「……殿下がそうおっしゃるなら、止めはしませんが。
くれぐれもご注意ください」
私は笑顔で頷いた。