25.凱歌
ウィンコット王国の本営テントに、兵士が報告に現れる。
「閣下、敵軍から『降伏交渉に応じても構わない』と通達がありました」
グローバス将軍がため息をついた。
国王が二か月間判断を保留しているというのに、帝国の皇帝はこちらの限界を正確に見切っているようだ。
川を挟んで布陣して一か月、この間に衝突は一度もなかった。
あちらは最初から、こちらの兵站が尽きるのを待っていたのだろう。
「応じると伝えよ。
私が一人で交渉に赴く」
「はっ!」
兵士が本営テントから駆け出していく。
参謀が不安げにグローバス将軍に尋ねる。
「国王陛下の指示を待たずに応じてもよろしいのですか」
「三万の兵たちを無駄に殺すこともあるまい。
勝ち目など万に一つもない」
ゆっくりと本営テントから出たグローバス将軍は、雨に濡れながらデミトリ川に向かった。
橋を渡ると、まるでカーテンを潜り抜けたかのように雨がやんだ。
背後で雨に濡れる王国軍を見やりながら、グローバス将軍が呟く。
「報告通りか。いったい何が起きているのか」
正面に向き直り、待機していた帝国兵に案内されながら歩いて行った。
****
辿り着いた先は、帝国軍の本営テントだった。
テントをくぐるグローバス将軍の前に、見覚えのある青年が立っている。
数か月前、夜会で婚姻同盟が発表された時に見た顔だ。
「貴公はキーファー皇帝で間違いないか」
キーファー皇帝が不敵な笑みで頷いた。
「確かに俺が皇帝だ。降伏交渉の使者は貴様か」
「左様、ウィンコット王国軍を預かるグローバス辺境伯だ。
貴公の要求を聞きたい」
グローバス将軍の言葉に、キーファー皇帝が不敵な笑みのまま応える。
「無条件の全面降伏――そうすれば命は助けよう。
貴様ら騎士は捕縛させてもらうが、兵士たちは家に帰す。
あとは王都まで真っ直ぐ進軍するだけだ」
苦悩するグローバス将軍が尋ねる。
「……国王陛下をどうするつもりか」
「さすがに放置はできん。
監督官を派遣し、一領主として収まってもらう。
反抗する様ならその場で処断するがな」
――あの陛下が、大人しく従うだろうか。
不安に思うグローバス将軍にキーファー皇帝が告げる。
「国王が無能なら、幽閉で済ませても構わんぞ?
たしか王子が居ただろう。
王子を領主に封じ、監督官に従ってもらう。
どちらも無能なら、哀れだが処刑してしかるべき人材を派遣する」
国王陛下より、パトリック王子の方がまだ目がある。
駄目で元々、こちらの要求を押し通す権利も力もない。
諦めたグローバス将軍が、深いため息をついた。
「……いいだろう。貴公の要求通りにしよう」
キーファー皇帝が満足げに頷いた。
****
帝国軍はウィンコット王国軍の騎士たちを捕縛し、兵士たちに食料を持たせて解放した。
彼らが進軍すると、面白いように長雨がやんでいく。
戸惑いながら空を見上げる兵士たちは、わずかだが久しぶりの食料を手にし、笑顔で帰路についた。
捕縛された騎士たちはデミトリ川手前の領主が身柄を預かり、軟禁することが決まった。
帝国軍は真っ直ぐ王都を目指しながら、一か月をかけて進軍経路の民衆に施しを与えて進んだ。
悪天候と無縁の帝国軍は意気軒昂なまま、ウィンコット王国の王都を包囲し、降伏勧告の使者を王宮に送った。
ウィンコット国王は苦悩しながらつぶやく。
「我が軍が敗れたのか」
応える側近は誰も居なかった。
元から勝ち目など見えない戦い、度重なる降伏交渉の要請を無視し続けたのは国王本人だ。
側近たちは逃げる気力も失い、放心する国王の指示を待つことなく、兵士に「降伏に応じよ」と告げた。
ウィンコット国王の前に、再びキーファーが姿を見せる。
およそ半年ぶりの王宮に、何の感慨もみせずにキーファーは周囲を見回した。
ウィンコット国王の他にパトリック王子、そしてその伴侶らしき姿も見える。
彼らは怯えながらキーファーの言葉を待っているようだった。
「王妃はどこに行った?」
「……あれは部屋で休んでいる。
王国軍が敗れたと知り、倒れたのだ」
キーファーが冷笑を浮かべながら鼻で笑った。
「トリシアならたとえ敗戦しようと、この場に立つ気概くらいはあるだろうにな。
十六歳の小娘にすら劣るとは、情けない王妃だ」
パトリック王子の隣にいる少女――リンディが顔をしかめて声を上げる。
「――そうよ、トリシア! 彼女はどうなったの?!
帝国とは婚姻同盟を結んだのではなかったの?!」
キーファーが冷たい眼差しをリンディに向けた。
「俺の妻の名を軽々しく口にするな。不敬だぞ。
彼女は帝国の正妃――皇后として今も帝都を守っている。
――この国の窮状は、もう外部からの支援で救える状態ではない。
ゆえに帝国が占領し、内部から立て直しを図る。
無駄な殺生をするつもりはない――歯向かわなければな」
パトリック王子が青い顔で告げる。
「キーファー皇帝、リンディはトリシア皇后の妹だ。
名前を呼ぶくらいは許してやって欲しい」
「なんだ? では俺の義妹ということになるのか。
であれば、今の不敬は忘れてやる。
だが以後の不敬は許さん。
理解したなら返事をしろ」
屈辱に顔をゆがめるリンディが、唇を噛み締めながら応える。
「……理解しました」
キーファーはリンディを一瞥した後、国王を見据えた。
「国王よ、貴様に問う。
領主として俺に仕える気があるか?」
青ざめたまま、体を震わせる国王は何も応えない。
キーファーはため息をついて告げる。
「この期に及んで何も決定できんか。
領主としての能力にも欠ける男だな。
――パトリック王子、だったか。
貴様は俺に従い、この地を統治する気があるか?」
パトリック王子は震える手を握りしめて応える。
「……父上と母上はどうなる」
「幽閉しても構わんし、保養地送りにしても構わん。
――貴様の返答次第では、処刑台送りにしても構わん。
さぁ、返答を聞かせろ」
わずかに逡巡した王子が、目を伏せながら告げる。
「……皇帝陛下に、従います」
「パトリック殿下! なにをおっしゃるの?!」
リンディの言葉に、パトリックが非難の目を向けた。
「父上たちをお助けするには、もうこれしか選択肢がないのだ」
キーファーが満足げに頷いた。
「いいだろう。及第点をくれてやる。
国王と王妃の命は助け、保養地送りにしておけ。
――尤も、当面は牢獄の方が過ごしやすいだろうがな」
今の悪天候まみれのウィンコット王国に、保養地と呼べる場所はないだろう。
それなら災害で苦しむことがない分、牢獄の方がマシと言えた。
パトリック王子がキーファーに尋ねる。
「この国を救えるのですか」
「トリシアの助力があれば、帝国の災害対策と合わせて対応は可能だろう。
今後十年をかけて、この国をまともな農業国家に建て直す。
――パトリック王子よ、貴様はそのために尽くせ」
頷くパトリック王子を見て、キーファーが周囲に告げる。
「これから必要な書類を交わす。
誰か国王を『手伝って』やれ。
もう一人では、歩くことすらできまい」
周囲の側近たちが国王を支え、奥の部屋へと歩かせていく。
キーファーはその後ろを悠然とついて行った。
パトリック王子もその後に続こうと足を踏み出す。
そんなパトリック王子に、リンディが声をかける。
「パトリック殿下! 何をなさるのですか!」
「……父上から王位を譲り受け、帝国と従属同盟を結ぶ。
おそらく王国は解体され、一領地へと変わるだろう。
リンディ、それが嫌なら今からでも逃げるか?」
「帝国の属国になるというの?!
この私が、トリシアの軍門に降るとでも?!」
パトリック王子がため息交じりで応える。
「耐えられないなら、この国を出ていけばいい。
王国民を救うには、もうこれしか手がない。
私は国民を見捨てることはできない。
逃げるなら一人で逃げてくれ」
キーファーの後を足早に追いかけるパトリック王子の背中を見て、リンディが歯噛みした。
――あのトリシアが皇后で、私は領主の妻になるの?!
屈辱に体を震わせるリンディは一人、謁見の間で佇んでいた。