19.出征準備
皇帝の執務室をエストラーダ侯爵が訪れていた。
「小耳に挟んだのですが、出征を計画しているとか。
どこに攻め込むつもりなのですか?」
キーファーが書類から目を上げ、ニヤリと微笑んだ。
「耳ざといな。ウィンコット王国を攻め落とそうと考えている。
あそこへは災害支援と資金援助を用意していたが、それを出征に回す。
もはやあの国は、外部の支援でどうにかなる状態とは言えん」
エストラーダ侯爵が戸惑うように尋ねる。
「ですが、そこまで荒廃した国を占領して帝国に利益があるのですか?
あの国は農業大国、それが不作続きで困窮しているとなると、旨味が見えません。
今は災害も多く、復興するには時間がかかりますよ?」
「今のウィンコット王国には、災害対策という知恵がない。
トリシアが言うには、精霊樹の恩恵に頼り過ぎてノウハウが失われたそうだ。
帝国の災害対策を導入し、踏みとどまっている間にトリシアの恩恵を与える。
それであの国は農業大国として復活するだろう」
エストラーダ侯爵が腕を組んで顎に手を当てた。
「……戦力はどうなさるのですか。
ヴェラーニ公爵派閥は、まだ動く余力がありませんよ。
彼らに動員を呼び掛けても応じないでしょう」
「帝国騎士団を俺が率いる。
兵士たちを付近から招集し、一万の軍で落とす。
貴様はヴェラーニ公爵を牽制するために兵力を残せ」
キーファーの言葉を聞いて、エストラーダ侯爵が口の中で小さく呟く。
「それならば対応は可能か……」
「準備が整い次第、遠征を開始する。
今のウィンコット王国なら、三か月耐えるのが限界だろう。
兵站も満足に維持できないなら、士気も当然壊滅的だ」
民衆が困窮している中、防戦のために兵士や兵糧でさらに締め上げられる。
災害も続く中で士気も最低、体力も落ちた兵士たちなら敵ではない。
とはいえ、災害続きの土地に攻め込むならば帝国軍にもリスクはある。
「我が軍の兵站はどう確保なさるのですか?
道を確保できるのですか?」
キーファーが鼻を鳴らしながら応える。
「橋は落ちている可能性があるが、そこは帝国が架け直していくしかあるまい。
それはそれで民衆の支持につながる。
施しを与えながら攻め込めば、進軍経路の領主たちを取り込むことも可能だろう」
「一万の軍に、敵国への施しですか……。
帝国の懐事情も楽ではありませんよ?
我が領土は昨年より収穫が上がる見込みですが、それでも苦しい」
「トリシアには策を授けておく。
『俺が指示する土地の実りを増やすように』とな。
ヴェラーニ公爵派閥の領土周辺を避け、他の領土で収穫を増やす。
増えた分を前線に送り、ウィンコットの民を救いながら兵站を確保する」
エストラーダ侯爵が検討するように目線を落とした。
「……ウィンコット王国の有効戦力はいかほどを見込んでいますか」
「三万は動員してくるだろうが、質を考えれば帝国軍一万で充分蹴散らせる。
無駄に殺さず、捕虜たちは解放していく。
三か月で王都を攻め落とし、我が軍は二割を失う程度で済むだろう」
「なるほど、充分な勝算ですね。
――トリシア殿下はどうなさるのですか?
三か月間、陛下の庇護から離れますが」
キーファーが眉根を寄せて悩んでいた。
「……母上と貴様の派閥でなんとかしてもらう。
トリシアが社交界で立ちまわるには、まだ時期が早い。
少しずつ慣れてはもらうが、一年は満足に動けまい」
エストラーダ侯爵が頷いて応える。
「わかりました。
陛下が留守の間、我らが殿下をお守りしましょう。
皇太后陛下の後ろ盾があれば、迂闊に手を出されることもない」
キーファーが小さく息をついた。
「そうあって欲しいと願っているのだがな。
トリシアは素直な分、敵も味方も作りやすい。
再び帝国を乱すような状況になれば、母上は静観に回られるかもしれん。
そうなったら貴様だけが頼りとなる」
エストラーダ侯爵が軽妙な笑い声を上げた。
「これは責任重大ですな。
わかりました。中立派の貴族たちも、なるだけ抱き込んでいきましょう。
後顧の憂いを絶つのが私の役目です」
「頼んだぞ」
頷いたエストラーダ侯爵が礼を取り辞去していった。
キーファーはため息をついて呟く。
「三か月か。その間はトリシアと共に眠れんな」
寂し気な色を含んだ声を、侍従だけが静かに聞いていた。
****
ウィンコット王国の王宮では、その日も煌びやかな夜会が開かれていた。
笑い合う貴族たちの姿を見ながら、パトリック王子が眉をひそめる。
民衆が困窮し、各地で小規模な暴動が発生している。
そんな中でも夜会を開き、今までと変わらない生活を送る貴族たち。
帝国の支援はまだ届かず、このままでは大規模な暴動につながりかねない。
貴族への反発も大きくなり、各地の領主たちは苦心しているようだ。
税収も落ち込み、王宮以外では贅を凝らした夜会は開かれなくなっているとも聞く。
その鬱憤を晴らすかのように、貴族たちは王宮で贅沢を楽しんでいるようだった。
――このままでいいのだろうか。
国王に進言したこともあるが、パトリック王子の言葉は聞き届けられなかった。
精霊樹は葉を全て落し、枯れ木のように変わっている。
災害が続き、近頃では遠方の食材も届かなくなってきた。
予定ではそろそろ帝国の支援が始まるはずなのだが、キーファー皇帝にしては動きが鈍いように思える。
不穏な気配を感じているパトリック王子に、リンディが微笑んで尋ねる。
「どうなさったの?
そんな辛気臭い顔は、殿下には似合いませんわよ?」
「……リンディ、君は不安にならないのかい?」
リンディがきょとんとした顔でパトリック王子を見つめた。
「何を心配することがありまして?
間もなく帝国の支援が始まるのでしょう?
災害対策に資金援助。
これがあれば、我が国も立て直せますわ」
――リンディには、この国を憂うという気持ちがないのか。
ため息をつくパトリック王子の手を、リンディが両手で引っ張った。
「さぁ、私たちも踊りましょう?
役立たずのトリシアを帝国に売って援助を引き出したんですもの。
もう何の心配も要りませんわ」
「……そうだね」
パトリック王子は微笑みを顔に張り付けて頷いた。
トリシアがこの国を去ってから、状況は加速するように悪化している。
本当にこれで良かったのか、それはパトリック王子にもわからなかった。
二人はホール中央に進み、ワルツの輪に加わっていった。
****
私はキーファーから渡された地図をリビングの机に広げ、宙を舞う光の玉に話しかける。
「この色のついたところで実りを増やしてほしいんですって。できる?」
『わかったー! 仲間に伝えておくよー!』
『私たちに任せてー!』
私は微笑んで頷いた。
どうやら精霊たちは、地図を見て地理がわかるみたいだ。
背後から地図を覗き込んできたスコットが、顎に手を当てながら告げる。
「ほぅ、この領土の収穫を増やすのですか。
これはまた、見事にヴェラーニ公爵派閥の領土周辺を除外してますな。
しかも南方に固まっているような……これは、どういう意味ですか?」
「キーファーは細かいことを教えてくれなかったの。
だから私にもわからないのよ」
だけど、南と言ったらウィンコット王国がある。
『これから攻め込む』と言っていたウィンコット王国に近い領土で収穫を増やすのは、たぶん意味があるのだろう。
キャサリンが近づいてきて、私に告げる。
「トリシア殿下、宮廷にローラ様がお見えになっていたそうです。
皇帝陛下が追い返してしまわれましたが、『殿下にお会いしたい』と申しておりました」
「ローラさんが? 私に? 何の用だろう?」
小首を傾げる私に、キャサリンが告げる。
「正妃の座を追われたローラ様を、正妃の殿下にお会いさせるわけには参りません。
殿下に恨みを抱いてもおかしくない相手ですので」
「えー、そうなの? 私が命を救ったのに?」
ローラさんの命を救う代わりに、正妃なんて面倒な役割を引き受けたのに。
それを逆恨みされても困ってしまう。
「殿下、決してローラ様にはお会いなさいませんよう」
「はーい、わかったわ。
――スコット、今日こそチェスで私が勝つわよ!」
スコットがニヤリと微笑んだ。
「ええ、お相手仕りましょう」
私はチェス盤を取り出すと、二人で駒を盤上に並べていった。