11.若き皇帝
正妃ローラは焦っていた。
トリシアが宮廷にやってきてから早二週間が経過した。
その間、キーファーはトリシアの居る第四妃宮に泊まり続けている。
いくら婚姻直後とは言え、これではあまりにも極端だ。
他の妃の時ですら、数日に一回はローラの元へ通ってきていた。
既に社交界でも、このことは噂になっている。
『お渡りがない妃』などと言われては、面目丸つぶれだ。
――正妃のプライドにかけて、陛下を取り戻してみせる!
ローラは決意した足で皇帝の執務室へと向かった。
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キーファーの元を尋ねたローラに対し、侍従が静かに告げる。
「陛下は『今は会う時間がない』とおっしゃっておられます。
どうぞこの場は出直して頂きますよう」
「――私と会う時間がないと、そうおっしゃったというの?!」
「はい、左様でございます」
侍従の穏やかな表情には、譲る気配がない。
歯噛みをしたローラが、声を張り上げて告げる。
「いいわ! それならこちらも考えがあります!」
身を翻したローラが、乱雑な足取りで廊下を戻っていった。
その姿を見送った侍従がキーファーに報告を上げる。
「ローラ殿下にはお帰り頂きました。
ですが……構わないのですか?」
キーファーは書類に目を通しながら応える。
「何がだ?」
「今ヴェラーニ公爵を敵に回すと、国政に乱れが生じるかと。
あの様子では間違いなく、御父上を頼られるはずです」
「フン……小賢しいローラのことだ。そのくらいはするだろうな。
だが戦費の負担が大きかったのもヴェラーニ公爵派閥だ。
今すぐ動きを見せることはできまい」
三年間に及ぶ戦役、その主力を担ったのがヴェラーニ公爵派閥だ。
戦功を多数挙げたが、その代償も大きい。
今の公爵領は重税で民衆が喘ぎ、これ以上は搾り取れない状態だ。
仮に反旗を翻したくても、それは不可能と言えた。
帝国議会は混乱するだろうが、影響はその程度。
強権を発動し政策を推し進めれば問題ないとキーファーは考えていた。
侍従が眉をひそめて告げる。
「陛下、恐れながら申し上げます。
強権の発動はほどほどになさいませんと、いざという時に効果が薄まります。
今回であれば、陛下が第一妃宮に宿泊すれば済む話ではありませんか?」
キーファーが静かな表情で書類を片付けていく。
「……それも考えたのだがな。
どうにも今はローラと夜を共にする気になれん。
夜伽の相手もせずに泊っても、ローラを納得はさせられないだろう」
最善手はわかっている。だが心が付いて行かなかった。
手に入れた安寧の時間をかけがえのないものに感じていた。
そんな思いがキーファーを二週間も第四妃宮へ通わせている。
己の立場も弁えず、皇帝である自分に媚びない女――そんなトリシアを手放したくなかった。
他の女を抱いた手で彼女を抱きしめたくなどない。
そんな思いが心にこびりついて離れないのだ。
侍従はそんなキーファーの心を察し、疲れたようにため息をついた。
――陛下もまだまだお若いか。
若干二十五歳の皇帝。心を殺しきるには、場数が足りていないのだ。
****
その日の午後、ヘレン皇太后がキーファーを呼び出した。
キーファーが部屋を訪れると、ヘレンが厳しい目を向けて告げる。
「私が何を言いたいか、わかっていますか」
キーファーは小さく息をついて応える。
「ローラのことですか?
それなら気にする必要は有りません。
ヴェラーニ公爵なら、私が抑え込みます」
「ローラだけではありませんよ。
シャイナやベレーネも、あなたは放置している。
これではトリシアの立場が悪くなるだけだと、なぜ気付けないの」
ヘレンの厳しい言葉に、キーファーの片眉が跳ねあがった。
「……母上の耳に、何か届きましたか」
ため息交じりにヘレンが応える。
「近頃、第四妃宮では近衛騎士とトリシアが『懇ろになっている』と噂が出回ってるわ。
表には姿も見せず、妃宮に籠ってとっかえひっかえしてるとね」
キーファーが眉をひそめて応える。
「噂の出どころはどこですか」
「巧妙に隠してるけど、おそらくシャイナでしょうね。
それに――こんなものが届いてるわ」
ヘレンが差し出した手紙をキーファーが受け取り、目を通す。
それはトリシアに対する、ヴェラーニ公爵派閥の開く夜会への招待状だった。
開催日は明日。用意する時間など残されていない。
トリシアを貶める噂が出回っている中、ヴェラーニ公爵派閥からの招待を断れば状況は悪化する。
姿を見せなければ、噂はさらに尾ひれを付けて広まっていくだろう。
少なくともヴェラーニ公爵はそう動く。
そうなってからトリシアが社交界に姿を見せても、時すでに遅しだ。
ヘレンがため息をついて告げる。
「ドレスは間に合わないけど、トリシアを向かわせるしかないわ。
彼女一人で乗り切れればいいけれど、難しいでしょうね」
キーファーが頷いて告げる。
「私がトリシアをエスコートします。
会場では何があろうと彼女を守る。それでよろしいですね?」
「強権の発動は、なるだけ控えなさい。
――まったく、素直にローラたちの相手をすれば済む話だと言うのに。
あなたには皇帝の自覚がないのかしら」
「……用件は以上ですか?
では失礼します」
ヘレンに背中を向けて立ち去るキーファーの姿は、皇帝ではなく二十五歳の青年だった。
己を殺しきれず、国を乱しかねない状況に今一番苦しんでいるのはキーファーだろう。
これまで冷徹に国政を担ってきたキーファーをこうも狂わせる。
トリシアという劇薬は、どうやら刺激が強すぎたようだ。
ヘレンが傍仕えを呼び寄せて告げる。
「私にも招待状を用意しなさい」
――トリシアの資質を、改めて見極める必要があるわね。
彼女の存在がキーファーにとって毒にしかならないならば、彼女を処断しなければならない。
国母として冷徹な判断を下したヘレンは、静かに紅茶を口に含んだ。
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夕食の席で、キーファーが不機嫌そうにパンをむしっていた。
「どうしたの? なにか嫌なことがあった?」
「……明日、お前を連れて夜会に出ることになった」
私は思わず声を上げる。
「え? 夜会に出るの? なんで急に?」
「お前は細かいことを気にしなくて構わん。
会場では俺が対処する。
余計な発言をしないように気をつけておけ」
そりゃあ、社交界で自分から何かを言おうなんて思わないけどさ。
「ドレスはどうするの?
新しいドレスが出来上がるの、もう少し後って話じゃなかった?」
キーファーが冷たい笑みを浮かべて応える。
「ご丁寧に、お前のサイズに仕立て直せそうな既製品も軒並み買い占められている。
どこかから、母上に会った時のドレスの話が漏れたのだろう。
同じドレスで出るしかあるまいよ」
「ふーん、それならそれでいいんじゃない?
私にとってはいつものことだし、大して気にはならないわ」
キーファーがきょとんとした顔で私に告げる。
「……それで構わないのか?
大勢の帝国貴族の前に、あの姿で出るんだぞ?」
「ウィンコット王国では、いつものことだったわ。
王宮にも似たようなドレスで通ってたし。
回数は多くなかったけどね」
ため息をつきながらキーファーが告げる。
「だが、新参者の妃がみすぼらしい恰好をするのだ。
嘲笑されるのは覚悟しておけよ」
「だから、慣れたものだってば。
キーファーこそ、私が笑われたからって横暴を発動しちゃダメよ?
普段から横暴な人は、いざという時に信頼してもらえないからね」
私の言葉が伝わったのか、キーファーが神妙な顔で頷いた。
「母上からも言われている。
そこは耐えてみせよう」
「よし! 約束ね!
……それよりさー、他の妃のところに行かなくていいの?
ここのところ毎日泊まりに来るじゃない」
「お前は気にするな。
俺は俺のしたいようにするだけだ」
本当にわがままなんだから!
夫が他の妻のところにばっかり通ってたら、きっと嫌だと思うんだけどなぁ。
ローラさんとか、露骨に嫌がるタイプだろうし。
キーファーも妻を四人も抱えてるんだから、それくらいわかりそうなものだけど。
だけど……私の前に居るキーファーはいつも楽しそうだ。
そんな彼を見るのは、私も嫌いじゃない。
今夜も私は、楽しい夕食を過ごした後、二人でベッドに入って眠りに落ちた。