10.側妃
第四妃宮の前で警護をするスコットの背後で、ドアが開く音がした。
振り返るとキーファーが普段通りの冷徹な表情で告げる。
「ご苦労、訪問者は居たか」
「いえ、誰も来ておりません」
頷くキーファーに、近衛騎士の一人が笑顔で告げる。
「トリシア殿下のご様子はいかがでしたか?
初めての異国、少しは慣れられたのでしょうか」
――馬鹿、何を言い出してるんだ?!
密かに慌てるスコットの前で、キーファーが声をかけてきた近衛騎士を冷たい眼差しで見つめた。
「貴様が気にすることではない。
――いいか貴様ら、この第四妃宮の中のことは決して外に漏らすな。
たとえ母上に対してもだ」
ヘレン皇太后は時にキーファー以上の権威を持つ人物。
そんな相手にも隠し通せと命じられた。
あまりの無茶振りに、スコットが思わず声を上げる。
「皇太后陛下にまで内密にせよと、そうおっしゃるのか!」
「そうだ。トリシアの様子を表に出すな。
それから今後、トリシアの周辺には近衛騎士を常に配置しろ。
怪我一つでも許そうものなら、相応の処罰をくれてやる」
冷たく言い残したキーファーは、近衛騎士たちに振り返りもせずに宮廷に戻っていった。
声をかけた近衛騎士が、冷や汗を流しながら胸を撫で下ろす。
「――はぁ、危うく処罰されるかと思った。
トリシア殿下に懐柔されたんじゃなかったのか?
まるでお変わりないようだが」
スコットが小さく息をついて告げる。
「貴公は命拾いをしたな。
これからは不用意にトリシア殿下のことを口にするなよ?
陛下の逆鱗に触れかねん」
近衛騎士たちが神妙な顔で頷いた。
キーファーの不興を買った臣下たちがどうなったか、それは彼らが充分に知っていることだ。
スコットがその場の五人の騎士たちに告げる。
「私は交代の騎士たちを見繕ってくる。
それまで貴公らはこの場を頼む」
スコットも近衛騎士団の詰め所に向かい、宮廷の中に入っていった。
****
皇帝の執務室、書類を処理しているキーファーに侍従が告げる。
「陛下、ジェフリー大公がお見えです」
キーファーは書類から目を離さずに応える。
「何用か」
侍従が口ごもりながら応える。
「それが……『会って話す』とおっしゃられています」
鼻で笑ったキーファーが応える。
「ならば兄上にはお帰り願え。
『相手をしている暇はない』と伝えろ」
「……畏まりました」
侍従が静かにその場を立ち去った。
ドアの向こうから、ジェフリーの怒鳴り声が響き渡る。
「私を誰だと思ってるんだ!」
しばらく侍従と言い争った気配の後、ジェフリーの気配が遠のいて行く。
キーファーがつまらなそうに鼻で笑った。
――兄上の目的など、トリシア以外にはあるまい。
今はまだ、トリシアの身支度が整っていない。
そんな状況で人前に出す気はなかった。
昨日の一件で、母上はトリシアの味方になった。
ならば他の妃への牽制は受け持ってくれるだろう。
全てを計算した上で、帝国を離れていた二か月間にたまった書類を手早く片付けていく。
午後からはトリシアと乗馬をする約束がある。
それまでに減らせるだけ仕事を減らさねばならないのだ。
意欲的に仕事をこなすキーファーを、周囲の従者たちは内心で首を傾げながら見守っていた。
****
宮廷の中庭で、第二皇妃シャイナと第三皇妃ベレーネが談話室でお茶会を開いていた。
シャイナが微笑みながら告げる。
「聞きまして? ベレーネ。
陛下は午後から、田舎娘と乗馬に興じているそうよ」
ベレーネも微笑みながら応える。
「あらまぁ。シャイナへの挨拶もなしに、陛下と遊びに出掛けたというの?
随分と調子に乗った田舎娘ね」
田舎娘――当然、トリシアのことだ。
クロムウェル帝国から見れば、ウィンコット王国など田舎に過ぎない。
少なくとも帝国の高位貴族たちはそう認識している。
そんな田舎の公爵令嬢風情が、上位の妃である自分たちに挨拶もしないことを暗に責めていた。
ベレーネがニコリと微笑んで告げる。
「第一側妃の面目が丸つぶれね。
そのまま放置するのかしら」
シャイナが微笑みを湛えたまま応える。
「……まさか、身の程を思い知らせるだけよ。
新参者の第三側妃風情が思い上がったことを後悔させてやるわ」
ベレーネがころころと笑みをこぼす。
「あら怖い。シュタインバーンの王女は執念深いと聞くものね。
あなたに睨まれたら、田舎娘はすくみ上るんじゃないかしら。
――でも、皇太后陛下の通達はどうするの?
あの方には逆らえないわよ?」
「ああ、『田舎娘にはしばらく会うな』って奴かしら。
そんなもの、どうとでもやりようがあるわ。
陛下には早く目を覚ましていただかないと」
シャイナが凄みを含んだ笑みを浮かべた。
それを見たベレーネは楽しそうに笑みを返す。
「あなたのお手並み、拝見するわね。
私はしばらく様子見させてもらうわ」
「――ふん! 好きにすればいいじゃない。
それで陛下の寵愛を失って後悔してもしらないわよ?」
「あら、陛下の寵愛を独り占めできると思ってらっしゃるの?
随分と能天気なのね、シャイナは」
歯噛みをするシャイナが紅茶を置いて立ち上がった。
「気分がすぐれませんの。
これで失礼するわね」
「ええ、どうぞご自愛なさって」
微笑むベレーネを見下ろすシャイナが、不機嫌そうに中庭から立ち去った。
ベレーネは静かに紅茶を飲みながら考える。
――これでシャイナが潰れてくれれば、私が繰り上がるわ。
皇太后すら味方につけている今、トリシアに手を出すのは危険――ベレーネはそう判断した。
帝国に来た初日に皇太后を落とす手並みに、並々ならぬものを感じていた。
ローラとシャイナ、二人がトリシアに手を出して力を落としてくれれば、ベレーネが相対的に優位に立つ。
あるいはトリシアを取り込んでも面白いかもしれない。
ベレーネは静かに算段を巡らしながら、午後のひと時を過ごしていた。
****
風を切るように馬が走っていく。
帝都近くの平原はなだらかで、馬も気持ちよさそうに駆け回ってくれた。
「今度はあっちに行ってみましょう!」
私が林のある方を指さすと、並走するキーファーが頷いた。
私たちの周囲には二十人に及ぶ近衛騎兵が並走している。
これだけの数で馬を走らせると、馬たちにも競争意識が湧くらしい。
馬の思うように走らせれば、『自分こそが一番だ』と言わんばかりに前に出ていく。
――もちろん、近衛騎兵の馬はきちんと制御されてるのだけれど。
そんな追いかけっこのような時間を過ごし、帝都周辺を一回りして宮廷に戻った。
馬を止めてハンカチで額の汗を拭きとる。
「ふぅ。こんなに思う存分馬に乗ったのは初めてかも!」
キーファーが嬉しそうに頷いた。
「ではこれからも、なるだけ時間を作ってやる。
週に一度程度なら外に出してやれるだろう」
私は唇を尖らして応える。
「別に、キーファーが居なくても大丈夫よ」
「そうはいかん。
お前は一人にすると、何をしでかすかわからんからな。
俺の目の届く範囲に居ろ」
なんだか、今日は妙に息苦しい。
『傍から離れるな』とか『目の届く範囲に居ろ』だとか。
宮廷から出てくる時も、周囲を威嚇するように人を近づけなかった。
なんでそんなにピリピリしてるのかなぁ?
「私、もう十六歳なんだけど?
一人で馬にくらい乗れるわよ?
近衛騎士だって付いてるし」
「お前は『まだ』十六歳だ。
そのうえ貴族社会のイロハも知らん。
油断をしていれば足元をすくわれるぞ」
もう、心配性だなぁ。
「じゃあなーに? 私には妃宮に引きこもってろって言う訳?」
「よくわかってるじゃないか。
当分トリシアは外に出るな。
少なくとも、俺が同伴する時以外はな」
私は思わず声を上げる。
「――横暴よ?!
私だって羽を伸ばしたいんだけど?!」
「しばらくは我慢しろ」
「退屈で死んじゃうわよ!
一日中あの中に居て、どう過ごせって言うの?!」
キーファーがため息をついて応える。
「屋内で時間を潰せる趣味は、何かないのか」
私は眉をひそめて悩んだ。
「うーん、トランプぐらいかしら。
私って頭が悪いから、ボードゲームの類は苦手だし」
キーファーが疲れたように告げる。
「――ベイヤード伯爵、貴様がトリシアの相手をしてやれ。
それと第四妃宮の内部に配置する近衛騎士を増員しろ。
外部からの干渉は全てシャットアウトしておけ」
近衛騎士の一人が「はっ! 畏まりました!」と声を上げた。
……あー、この人は確か、ウィンコット王国の宿屋でキーファーに剣を突き付けられた人かな。
今の私に近づけるとか、よっぽど信頼されてるんだろうか。
そんな信頼してる相手にも剣を突き付けるなんて、キーファーったらしょうのない人ね。
馬から降りると、近衛騎士たちが私とキーファーの馬を連れていった。
第四妃宮に戻る私の背後を、複数の足跡が付いてくる。
「……キーファー? なんでこっちに来るの?
宮廷はあっちでしょう?」
「今夜もお前の部屋に泊まる。
文句は言わせん」
――またわがまま発動か。
私はため息で返事をしながら、第四妃宮の中に入った。