長月の長閑けき暮に望郷を
――そう言えば、マカダミアナッツのマカって、摩訶不思議の摩訶と同じなんだよ――
あれは一体、いつの話だったか。大雑把な時期については今でも覚えている。我が地元であるところの播磨にて、某専門学校に通うため、駅へと向かう道すがら。世界に誇る文化遺産、白亜の城の麓近くにある広いところ……そんな感じのところで、自転車に乗りながら、同じ専門学校に通っていた友人と、冒頭に記した意味合いのことを話したのである。季節は知らん。多分夏ではなかった(根拠無し)。
大半の読者は分かっていると思うが、冒頭の言は大噓である。何で当時そんな話をしたのか、文脈はさっぱりと忘れたが、件の友人は素で信じたらしい。言っといて何だが、せめて少しは疑え。
しばしば掘り返すため、私にとっては印象深いこの話も、よくよく考えてみれば、高校卒業からの三年のうちの話なので、もう既に十五年ほど前のことである。まだまだ平成も終わらないころだ。思い返す日々は、きっと今とは色々が異なっているのだが、その一方で、目覚ましく何かが変わったとも思えない。細かく見れば、進歩はどこにでも有り触れている。過去から見れば信じられないような発展であれ、それは確かに過去から線形に繫がる今であった。
……まぁ、既に失われた古代の目覚ましい文明というものも、きっとあるのだろうが。
人の歴史も、星の歴史も、今を生きる人にとって都合良くなっていることは殆ど無い。どうであれ、昔があったからこそ、今はここにある。実際にはそうではない可能性もあるのだろうが、ここでは置いておく。流石に話が脱線し過ぎなので。
勿論、過去の話をするということが、ただあった過去のみを語るためであることは、それほどない。それは例えば、誇張された伝説を語るためであったり、将又そこから繫がる今を語る布石であったりする。
今回は、後者だ。過去にそういう話をした友人と、飯を食ってから話したという事について、これを記しておく。
ついでに、久々に冗句を交えながら話したいところだ。元々、私の随筆もどきはそれを原点としている。あらゆる情動が紡ぐ言葉もまた私ではあるが、たまには飾る言葉の練習もしなくてはならない。
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みたいな感じで、要らん話ばっかりしてるから読者が付かんのだとは思うが。
……いや、関係ないな。認知されているかどうか、更新頻度が高いかもそうだが、そもそも面白い話を書けていなければ、継続的に読む価値は存在しないのである。そして、私個人の意思としては、別段それで構わないのだ。私は、他でもない私自身のために文章を書く。私にとって意味のあった過去を――意味を作り出した瞬間を振り返るために、記録するだけだ。
ともかく、とある高架下近く(という表現でいいのか)の、繁盛しているらしい某ラーメン屋に行くという話が、記憶によれば数週間前に話が挙がったので、満を持して決行されたのである。同行者は、件の専門学校時代の友人二名。
……こんな表現をするのは、あまり妥当ではないのかもしれないが。人という種の属性には、主人公性とでも言うべき光輝があるように思う。
創作では分かりやすい。観測者にとって主に焦点を当てられるもの。観測されることを存在意義とするもの。そして、それに対比して存在する、その他大勢の群衆。基本的には、その二つの属性が当てられた二名以上の複数名によって、語られる話は存在する(※)わけだ。
故に、ここに集まった我々三名にも、そういう属性によるラベルが貼り付けられていた。少なくとも、私はそう解釈出来るし、そのように解釈していた。そこに居た私の昔からの友人は、私にとっては間違いなく一人の主人公であって、もう一人の(相対的に付き合いの浅い)友人と、そして私自身もまた、主人公の筋書きに付随する添え物であったのだ。
とはいえ、それは別に悲観的な話ではない。
中心人物にならなくても、誰かに語られることがなくても、誰かに価値を認められることがなくても。生はただそこにあって、続く限りは無価値にならない。生まれたからには、生きている権利が誰にでもある。本質的には、その行いが人の世にとって好ましいかどうかすら無関係に、だ。
……いや、そういう話じゃなくて。
幻視される主人公性などというものも、そこに何かしらの意味や価値が伴うというよりは、私自身の内在的な世界解釈によって決められた値でしかない。
特に語らない限り、どちらかというと観測者にとっての主人公は私である。何故なら、私には私以外の視座を持って現実を描画する能力がないからだ。一次創作はもちろん別だが、妥当性に認識を支配される私には、既に存在する誰かの性質を理解することも、それを自認にて上書きすることも出来ない。それは、美点でもあり得るのかもしれないが、創作者という意味では欠陥でもあるかもしれない。
……それはそうなんだが、今はそういう話をする訳ではないのよ。
とにかく、行列の出来るラーメン屋に行ったわけだ。事前に決められていた集合時間(目安)よりも前に居たのは私だけで、一人は遠方からの来訪であったことから、電車の遅延によりやや遅参、もう一人は純然たる慢心によって遅参となったらしい。
それ自体は特に構わない。むしろ、書ける事が増えるので、見方を変えれば良いことですらある。結局のところ、一番遅刻しやすいのは、その場所に行きやすい者だ。ある程度、出発の時間に融通がきくなら、ギリギリまで別のことが出来る。そして、最終的には見誤って遅刻するのだ。現実は存外そんなもので、実のところ特に不思議なことでもなんでもない。
なんなら私も「単にそうはならなかった」だけで、少々遅刻しても構わんかとは思っていた節がある。私は基本的に私に非が無ければ大抵のことはどうでもいいので、余裕がある場面でも、ほぼ過剰なまでに早めに現地に行きたがるが、一方で頑張っても遅れそうなら、連絡だけさっさと入れて普通に遅刻する場合もある。他の人が遅れ気味なら尚の事。
そもそも、ラーメンを食いに行く目的ですら、最悪出来なかったとしても、それはそれで一向に構わなかった。自発的な目的ならともかく、誰かの意向に乗り掛かったというだけの動機では、その完遂が出来る必要性は特にないのである。手を抜くという話ではない。是が非でも成し遂げなければならない、というまでの意志の力はないので、出来なくても「残念だったね(てきとう)」で終わらせていいという話だ。
それに、飯を食うということについて、飢餓感に駆り立てられながらこれに臨むというほどの切実さもない。それはつまり、
「そろそろラーメンを食べないと死ぬぜ!」(※)
みたいな状態ではないことを意味する。日々を全力で生き、その命を燃やし続けるような在り方に、ある種の憧憬を感じなくもないのではあるが、当事者として日常的に
「今日も生き延びる事が出来た……」(※)
みたいな生命への切実な危機を感じていきたいほど、日々に無為を感じている訳ではないのだ。
……まぁ、つまり。口語的に分かりやすく表現するなら、食えなければ死ぬという訳でもなく、そこまで(生命の危機を感じるほどに飢えるとかを)しないと生きてる意味を感じられない……というほどの虚しさは特に感じていないので、平和に少々待ってるくらいが却って幸福だと言うわけだ。
そういう視座で改めてものを見れば、友人を待つ時間も、行列で待機する時間もまた、好ましい何かであるとは思いませんか。……思いませんかそうですか。ですよね。
ラーメンの味については、特に伝わるように書きはしないが、非常に美味であったと言える。普段は概ね天下一品(一旦言うまでもないがチェーン店)のラーメンばかり食っている訳だが、もちろんそっちはそっちで良いものであるにせよ、違うところで違う美食に向き合うというのもまた、生きることの本質的な幸福を思い出させてくれる。
そういったわけで、やはり誰かの意向に乗り掛かって飯を食うというのは、私にとっては「独力で至り得ないどこか」に辿り着く方法として、非常に重宝する事象だ。正直、行くのは面倒極まりないのではある。だが、面倒を乗り越えた先にこそ、やって価値があったと思えることはあるものだ。
……そう、まさにその「面倒」なことをしなかったことの結果に囲まれて生きている訳だが。行列を(という以前に、より遅れてきた方の友人を)待つ間に、そんな話をしていた。曰く、面倒事というのは何も考えずにただやるのが正解なのだそうだ。真理だと思う。
やると決めたからには、ただやるべきだ。誰かに対して責務を果たすべきだと感じるのなら、その誰かを作るしかない。……なので、やると決めないし、誰かもいないのである。怠惰なままに人知れず何処かで腐り果て、知られもせずに朽ちていくのだ。悲しいね。
……などと、無意味に悲観的な感じを装う必要も特にはないのである。
そんな友人も、もう結婚……までしたんだっけ? 籍を入れたかどうかとか、手続き的な事とかは正直何も把握はしていないわけだが、少なくとも子供の頃にそう考えていた、人生の典型的な「正解」に向けて進んでいく。
それは、私にとっては疑いようもなく好ましいことであった。妬ましい、というのは全く違う。望むならば同じようにすればいいのだから、「出来ないかもしれない」という想起があったとしても、しないならば望まないのと同じことでしかない。
私は、少なくとも私が思う人道的価値観として、私が好ましいと感じる誰かが幸福であることというのは、単純に望ましく、好ましいことである。明確にそれを望み、そのようになった、それに勝る幸福など他に有り得ようか。
相手の人がどんな感じなのか、やはり興味はあるわけだが、その一方で「相手を知る」ことも、「相手に知られる」ことも、ある種の恐ろしさや、脅威を孕むように思う。知らなければ幻想の中にそれはあり、知ってしまえば見えたものが現実に確定する。
知りたいと願いながら知ることを恐れ、知ってしまえば「そんなものか」と拍子抜けする。想像の中のものというのは、概ね現実にあるものよりも規模が大きいものだ。幻想の中の理想的な幸福にしがみつく限り、現実に向き合う必要はなくなってしまう。そういう意味では、本当はちゃんと現実に向き合うべきだ。たとえ最終的に報われる事がなくても、現実に幸福を求めるならば、そうしなくてはならない。
……まぁ、そういう話ではない。「相手に幻滅」とかは失礼極まりないので無いということになるが、「相手に幻滅される」ことは普通に有り得るだろう。私は、本当に大したものではないのだ。既に知られているならともかく、知らない間は私の実在性を意識も認識もしてほしくはない、そんな気がする。
むしろ、だからこそ胸を張って「私は私であって、それ以上でも以下でもない」と、誰しもの前にいてもいいのではあるが。何を恥じることがあるというのか。
勿論、その本質だ。恥ずかしい本質ですらも、望むならば伝えよう。誰かにとって見下し得る私の価値は、踏み台としての私であった。
さあ、私を踏んでくれ。そしたらその足を噛み千切ってやる(錯乱)。
結局は自分の望みも知り得ないまま、終わる今日も、始まる明日も、我を示すものが消えるその瞬間までは、厳然と続いていく。
過度に「人らしさ」に拘泥しながら、人の人たるを知らずに情動のまま生きる――その矛盾に満ちた在り方もまた、所詮は獣の一に過ぎないのかもしれないと、ふと思った。そして、それはそれでも構わないのだろう。
マカダミアナッツの名は、発見者の友人であるジョン・マカダム氏の名に由来する(発見者の名ではない)のだと聞きました。それもまた大噓である可能性はなくもないですが。
なお、当日その話を掘り返した事実だけは憶えているものの、どういう話の流れでそうなったのかは、もう何も憶えていない。もしかして、そういう呪いかなにか?
※語られる話は複数名によると言ったが、別に「登場人物が一人だけでは話を構成し得ない」とは言っていない(でも普通は最低でも二人は出てくる)
※「そろそろ寿司を食べないと死ぬぜ!」:同名の2022年7月手前頃に発売されたインディーゲームがある(興味はあるが、少なくとも執筆時点ではやったことがない)
※「今日も生き延びる事が出来た」:スマブラ(DX以降)に出てるファイアーエムブレムのマルス王子が勝利時に良く言ってるセリフ(スマブラ以外の知識は全くない)