ラーメン屋台の戦い~冬の陣~
夜も早まりまた一段と寒くなってきますと、たった一杯のラーメンが命綱となった人々が、順次路頭に迷い始め、それを目論んでいたとばかりに、今や一都市十台となったラーメン屋台はラッパ、フルート、サックス、チューバ、オーボエ、クラリネットなどを手当たり次第に吹きまくって客集めに奔走します。おかげで九台のラーメン屋台はみな繁盛、ただ一台だけは吹奏楽の心得がまったくないばかりにこの激戦に敗退。そのまま、ライダーゴーグルを巻いたゆったりスーツのドゥーワップ隊にさらわれると、殺され、春に向けて眠り続ける桜の木の下に埋められてしまいました。来年にはきっと見事な桜が、中華料理のごとく手早く咲き乱れ、学生や呑兵衛たちを喜ばせることでしょう。小春日の中、ある喫茶店のテラスにて、私はそんな風に本物の春に思いをはせていますと、ああ、これこそが人生の幸せなのだなと、どうしても涙をこらえきれなくなりました。新聞記事の見出しが少し滲みました。私は世界一幸せな街に住んでいます。このまま元気に年を越せるのなら何よりです。
ラーメンは年末に向かうにつれてうまさを増していくが、年明けとともにその魔法もだんだん薄れちまう。師匠と出会ったばかりの頃、オレの悩み事といえばニキビくらいなもので、このままずっと師匠の後にくっついて生きていくのだろうとばかり思っていたものだが、師匠はいとも容易くドゥーワップ隊に連れて行かれた。それから師匠の屋台を受け継いでからというもの、オレはすっかり師匠の桜の木に通いっぱなしのままニキビの年も超え、悩みごとの数も深刻さもともに増していった。
河川敷から一望される街に明かりが次々点っていくのを確認し、オレは芝生から腰を上げた。今日も今日とて屋台を走らせなきゃならない。昨日の繁盛が今日の甘えになるはずもなく、毎日毎日、いつだってオレは命を狙われかねない身なのだ。今晩はトンボ通りの方面から回ることにした。
売り物がラーメンでなくても、こうして屋台を引っ張って暮らす者なら誰しもが避けようとする。それはドゥーワップ隊との鉢合わせである。オレたち屋台引きの多くは、奴らのあの陽気な歌が聞こえてくるだけで、たとえその日の稼ぎがいくらだろうとも気分は一変、肋骨の下の心臓に手を忍ばされるような感覚に陥る。そのためドゥーワップ隊の目に留まりたくはないのだが、ただ屋台を引く以上、ある程度は目立つ必要があるのが難しいところだ。
客が一人入った。
「らっしゃい!」
「チャーシュー麺ちょうだい。」
「あいよ!」
それこそ、客が入って来ると、自然と心配も小さくなる。これからのことよりも今に意識が引き戻される大切な瞬間だ。
「トッピングはいらないのかい。」
「いらない。」
払いがあればその分だけ命が伸びるわけだし、なによりラーメンを器に用意する作業はとても心が落ち着く。やっぱりオレはラーメンが好きなのだ。
「あい! チャーシュー麺。お兄ちゃん、ビールは?」
「いらない。」
「そうかい。あと、これ。サービス。」
オレはこっそりよそっていたライスを客の前に置いた。
「兄ちゃん元気ないからさ。ラーメンもいいけど、米食わんと元気でんだろ。まあ日本人だわな。」
客の様子を見て、どうすれば喜んでもらえるかを考える。まさにこれが仕事というものだ。
「悪いけどいらないよ。」
「遠慮しなくていいから。」
「いや、食い切れないから。本当にいらない。」
「そうかい。」
オレはしぶしぶライスを下げた。まあ、こんなこともあるだろう。
「ったく、最近の若えもんは食が細いっていうか元気がねえっていうか。」
「そういう年齢を振りかざす発言やめろよ大嫌いなんだ。もうこのラーメンもいいや。お代、ここ置いとくわ。」
「すまねえって、そんなつもりじゃなかったんだ。せっかくなんだから食べてくれよ。」
「うるせえラーメン屋ごときが僕に口を聞くな。早くドゥーワップ隊に殺されちまえ老害。」
気分を害した客は頭突きをかますみたいにのれんをくぐり、腹いせに屋台のタイヤを蹴とばして帰ってしまった。トンボ通りにはこういう気難しい若者が多く行き交っているが、昨今のノスタルジー流行のおかげでこの地域をターゲットにしないわけにはいかないのだ。オレはほとんど残されてしまったラーメンを下げ、感情を殺して器の中身を捨てた。いまだにこうやって食べ物を捨てるのは心が痛むが仕方がない。さっさとこの一連のことを忘れるためにも、オレは棚からフルートを取り出し、客引きの演奏を屋台の横に立って始めた。するとオレの目の前にはすぐに人だかりができた。だが演奏で注目はされても、客は一人も生まないのが切ない。ラッパを吹く気分ではなかったとはいえ、フルートの細い音色はオレのセンチメンタルを加速させた。そのときである。
どぅーわっぷ。ぼんぼんぼんぼんどぅーわっぷ。ぼんぼんぼんぼん……。
「ドゥーワップ隊だ! ドゥーワップ隊が通るぞ!」
「お前ちょっと話しかけてみろよ。」
「ばか、殺されちまうよ。」
「かっけぇ……。」
運の悪いことに近くをドゥーワップ隊が通りがかっているらしく、周囲の注目が一斉にそっちへ向くのを感じた。聞こえてくる歌に唯一オレだけは寒気を覚え、必死に気づかないふりをしようと目を瞑ってより演奏に身を入れようと努める。しかし奴らの歌は着々とオレのそばに寄ってきている。そしてついにドゥーワップ隊四人の気配はオレの目の前にまでやって来てしまった。オレは観念し、固く閉じていた目を恐る恐る開けると、そこに立っているのは間違いなくドゥーワップ隊だった。白い歯をむき出しにしてニヤニヤして、ゴーグルの奥では圧力によってかっぴらかれた目が悪魔みたいだ。
「なんだよ。オレの店はちゃんと儲けを出してるはずだぞ。今も一杯売れたところだ。」
リードボーカルだけ合唱から離脱し、オレとの会話に応じた。
「ああ、みたいだな、通報があったよ。問題を起こしちまったらしいじゃねえか。それも知事のご子息様相手に暴行とはな。」
なるほどな。オレはすべてを察した。本当に今日はとことんついていない。
「そういうことだ。ほら、お前らこいつをおさえろ。処刑する。ここにいる生意気な奴らにも見せしめだ。」
どぅーわっぷ。ぼんぼんぼんぼんどぅーわっぷ。ぼんぼんぼんぼん……。
テナー、バリトン、ベースの三人は歌いながらオレを取り囲むと、まず手に持っていたフルートを奪い、まるで枯れ木でも折るみたいに真っ二つにしてしまった。次にはベースの膝がオレの腹に深く入れられ、そのまま地面にだらしなく転がされてしまった。その様子を見てテナーとバリトンはより一層調子を盛り上げている。そこにリードボーカルが地面に転がったオレの頭を踏みつけ、ベルトに備えていた拳銃を取り出すと、無防備な背中に向けて躊躇なくそれを発砲した。
昨日も今朝も、まったく新聞は感動を運んできてくれますね。それに人生の幸せというものも教えてくれます。数枚の白黒写真と単調な文字ばかりだというのにこの満足感ですから、将来は新聞記者にも憧れてしまいます。
「アサコ、そろそろ出かけるよ。」
「はい、お父様。今に向かいます。」
「まったくお父さんったら、まだ急ぐ時間でもございませんよ。」
「こうして娘と出かけるには年末年始くらいしか時間がないからね。どうしても気持ちがはやってしまうよ。」
「お父様、お待たせしました。」
姿を見せるなりお父様は、私の選んだ服装を下から上、上から下とその鑑識眼で見回します。
「うん、きれいだね。やはり私の娘だ。それにしてもまた新聞を読んでいたのかい。別に構いはしないがね。」
「ええ。新聞を読んでいるとつい夢中になってしまいます。」
「夢中になれるのはいいことだね。じゃあ行こうか。」
「二人とも、行ってらっしゃい。」
「行ってまいります。お母さま。」