第8話
黒板に達筆な文字が走る。
「Wunderbar!(すばらしい)」
独り言をつぶやき満足げに微笑むのは40代、やせ型、クセ強めの名物教師だ。特徴的な銀のフレームの眼鏡が彼の神経質さをいっそう引き立てている。彼こそがドイツ語文学研究部の顧問、小林充である。小林先生の受け持つ世界史の授業は話が膨らみとても面白い。
地球上の他の地域とは異なり肥沃な三日月地帯には農作を行ううえで重要な家畜となりうる野生動物が、運命的にも多数存在していたという解説。また、ユーラシア大陸がほかの大陸よりも文明が進んだ大きな理由は大陸が東西に延びていた為だという解説。(アメリカやアフリカ大陸のように南北に延びていると気候の違いによる影響で人・物の交流が難しいと考えられる)
教科書には載っていないそれらの知識がより歴史への興味と理解を深めていく。俺にとって、わりと好きな授業の一つだ。
だがただ一つ、ものすごく気になる点がある。小林先生の独り言だ。ドイツ留学の若き日の栄光をひきずっているのか、事あるごとにちょっとしたドイツ語がでてくる。「世界史の授業にそれいるかな?」って、つっこみたい。だいたい耳にするのは次の五つくらいだ。genau、richtig(正しい)、alles klar(分かった)、zum Beispiel(例えば)、Wunderbar。
お気づきだろうか。大したことは言っていない。そのため皆、生暖かい気持ちで聞き流している。そして現在、先生は実はドイツ語をしゃべれないのではないかという疑義が1学年での共通認識になりつつあった。そうなるとへたにつっこむこともできない。ややこしい。
今日は放課後に例の眼鏡レンジャーに再取材を行う。顧問も交えてとのことだったので前途多難だ。ドイツ語文学研究部、とにかくクセが強すぎる。嫌な予感しかしない。
ピンクの頭をしたギャルの白石ホタルとアマチュアゴルファーの遠峯漣もいっしょに行くことになっている。
ホームルームが終わると銀子に
「知恵熱でないように、ほどほどにがんばってねー」
と、見送られていざ決戦の場へ。
まずは新聞部の部室へと向かった。部室の前で白石が体操座りをしてスマホをいじっている。スカートがめくれてパンツが見えそう。どぎまぎするなぁ。
「白石さん、待たせたかな。」
目線をうろうろさせながら、俺が声をかけると、スマホから目を離さずに白石が答えた。
「あ、全然オッケー。遠峯は中にいるよ。あと5分待って。そしたらいっしょにいくー。」
「わかった。中にいるから、終わったら声をかけてね。」
そう言って通り過ぎる時にちらっと彼女のスマホ画面をのぞいたら彼女はゲームをやっていた。夢中になるあまり頭の真上に丸めたピンクのお団子が左右に小刻みにゆれるのがかわいらしい。
相変わらず自由な人だ。
部室をあけると遠峯が教科書とノートを机に広げて課題をやっていた。
「遠峯君、久しぶり。」
俺が声をかけると遠峯がくしゃっと、人の好さそうな笑みを浮かべた。
「ちょうどいいところに!ちょっとだけ数学を教えてくれない?授業を休んだ時の分がどうしてもわからなくて。」
「いいよ。」
僕は気軽に答えて遠峯の指さす問題に目をとおす。さらさらと解いて説明がおわったころに、白石が部室のドアから顔だけのぞかせて、
「お待たせー。いこっかー」
と、声をかけた。
3人で並んで向かう途中で白石が、遠峯に話しかけた。
「ゴルフって何が楽しいの?」
「コースを読むのが面白いんだ。他のスポーツと違って身体的な能力よりも頭脳で勝負するようなところがあるから、僕でも戦える。」
「かっこいいこといっているけど、スポーツやるくせにどうしてこんなにお腹が出ているの?これ、やばくない?」
そう言って、白石は遠峯の中年のようにつきでた腹をぽよんぽよんと揺らした。
「ちょっと、それセクハラだから。やめろよー。」
遠峯は白石に抗議しつつも顔がにやけている。かわいい子に絡まれて楽しそうだ。
「いいんだよ。ゴルフは球を飛ばすためには体重が必要なんだから。これも戦略のうちなのー。」
「いやいや。度を越してるから。アスリートのくせに、わがままボディすぎるー。うけるー。
まてよ。冬はミートテックになるんじゃない?あら、機能的?」
お腹をかばいながら言い訳する遠峯に、おちょくる白石。
にぎやかに廊下を進んでいると、ガラッとドアが開き
「静かに」
と、上級生らしき人に注意をされた。
俺たちは会釈した後、お互いに顔を見合わせると肩をすくめてそそくさと先を急いだ。
「私、過去の部活紹介記事を読んできたんだけどー。どれもうまくまとめられていて、特にこれといって面白くないんだよねー。」
白石が不満げに話した。
「そ…そういうものじゃないのかな?」
遠峰の返事に俺は同調して首を縦に大きく振る。
「えー。そんなんだからせっかく記事を書いてもHPのアクセスが延びないんだよー。読んでもらえないんじゃ、やる意味ないじゃん。」
いや…。意味はあるよ。あるから…。逆に部活紹介記事でバズりたくはないぞ。炎上怖い。
楽しいことを見つけたとでも言うように瞳があらわれ3人の周りをパタパタと飛び回る。やめれ。
「じゃ、白石はどうしたいの?」
あ、遠峯…聞いちゃった。なんでだよ…。聞くなよー。俺、聞きたくないよー。コワイ…。
白石は満面の笑みで、
「今回、スポットを小林先生に当てるのはどうかな。『ドイツ語離せない疑惑』を絡めて、おもしろ可笑しく書いたら絶対バズると思うんだよね。」
「えー。それ小林先生を敵に回すじゃん。俺、嫌だよ。ただでさえ出席数が少ないのに。」
遠峯が自らの体を抱きしめ、おののきながら反対する。
「大丈夫。大丈夫。要は書き方だってば。うまいこと書けば大丈夫だよー。おちょくってるのがばれなければいいんだよー。絶対、ばれないってー。」
「えー。俺には無理。文才ないもん。」
遠峯は両手を顔の前でクロスさせた。
遠峯…さっきから、ジェスチャー激しいな。ってか、教師をなめすぎだろ。絶対にばれるから。やめれ…。やめてくれ…。
俺が心の声を口にだせないまま二人の話は進んでいく。
瞳が「やったれー」って身振りで後押ししてくるけど…。どうやって二人の話に割り込めばいいんだ?タイミングが難しい…。
白石がカラカラと笑いながら遠峯の肩をたたく。
「遠峯、文才ないとか言ってよく新聞部にはいったよねー。うけるー。」
「ほっとけ。ここは幽霊部員でもオッケーの部だから入ったの。ゴルフ主体で活動するためには、ここに入るしかなかったんだってば。」
「確かに。幽霊部員でもオッケーなとこって他にないよねー。人気がないからって、部員の人数を集めるのにそこまで必死かーっていう。あれ?私も入部の動機はいっしょだ。あはは。でも活動にちょっとだけ興味がわいたから今回は参加しているわけなんだけど。
じゃ、役割分担を決めようかー。
見て、見てー。私、今日のためにスマホに便利なアプリをインストールしたんだ。
これ、録音した会話を自動で文字起こししてくれる、すごくかしこいやつなんだー。私、いい仕事するっしょー!」
「白石、ナイス!でかした!俺、タッチタイプできないんだよ。」
「えー。ゴルフばっかりやってないで、できるように練習しなよ。」
「ぐはっ。山根―。白石にはツンの要素しかない。俺、優しさ成分が欲しい。補ってー!」
両腕を広げて俺に抱き着こうとしてきた遠峯をなんとかとっさに避ける。遠峯に悲し気な恨みがましい目をむけられた。
いや…無理だから。手のひらをにぎにぎするのをやめれ。
「3つに役割を決めよう。インタビュアーと、文字起こししてもバグる箇所があるからバグを修正する人と、記事にまとめる人。どれがいい?」
白石の提案に、遠峯が即座に手をあげる。
「はい!俺、バグの修正おやりますー。小林先生のドイツ語が絶対バグるから、それ消してくー。」
「修正はデリートだけじゃないんだけど…。タッチタイプできないのに大丈夫かな?まぁ、作業はPCじゃなくて、スマホでやってもいいしね。オッケー、遠峯が修正担当ねー。じゃ、山根君はインタビュアーと記事にまとめるのと、どっちがやりたい?」
3つのうち、明らかに記事にまとめる役割が仕事の負荷大きいよな?おかしな役割分担だと声を大にしていいたい。だが、しかし!この流れで今更言い出せない。それに一応選択をこちらにゆだねてくれているわけだし…。
インタビュアーと記事のまとめの2択か。悩ましい。インタビュアーを白石にふったら、小林先生にぶっこんだ質問しそうで怖い。でも、記事のまとめを白石にやってもらった場合は…最悪炎上するかもしれないな…。恐ろしい。
「じゃ、記事のまとめやります。」
俺は泣く泣く選択した。最後の防波堤になる決死の覚悟だった。
「オッケー。じゃ、私がインタビュアーをするねー。
遠峯は文字起こしする時のために、一応インタビューのメモをとりながら、話を聞いててね。山根君はHPにアップする写真を適当に何枚かとってねー。」
白石はさくさく決めていく。
知らないうちに、俺の仕事増えてないか?いいけど。
リーダーシップをとる白石を遠峯がキラキラした目でみている。おや?これはもしかして…ラブなやつかな?楽しそうで何よりだ。
気づけば本日の現場に到着していた。
俺、そういえば先週は一人で挑んだんだよな。ちょっと不安だけど今日は仲間がいる。気合を入れて大きく息を吸い込んだ。
ドイツ文学研究部の拠点としている教室を白石がためらいもなく開けた。
「失礼しまーす。新聞部のものです。本日は取材で参りました。よろしくお願いいたします。」
よくとおる声で言った後白石はぺこりとおじぎをした。…ギャルのくせに、挨拶がきっちりできる子だったんだな。
俺は2人にくっついておずおずと最後に教室へ入る。前回は4人しか活動していなかった教室に、今回は30名以上の生徒がいた。
え…。なんで?どうした?
「いらっしゃい。こちらこそよろしく。何度も取材に来てくれて、ありがとうね。」
前回同様2年生の佐々木先輩が気さくに応じた。
俺が当惑気味に教室を見渡しているのを察して佐々木先輩が口を開く。
「前回取材に来てもらった活動は希望者のみが参加する討論会だったから少人数だったんだけど、今日は1週間に2度ある小林先生によるドイツ語講座の日だから、ほとんどの部員が参加しているんだ。人が増えたように見えるからびっくりしたでしょう。
後ろの席に空きがあるから自由に座ってください。」
「ありがとうございます。じゃ、さっそく。」
俺はぺこりと会釈して、3人でさっさと後ろの席へ移動する。
教室をきょろきょろ見渡して、白石がこっそり俺らに話しかけてきた。
「マニアックな部だから、オタクの巣窟かと思っていたんだけど、けっこう普通の人ばっかりじゃない?」
「本当だ。意外と普通だねー。少なくとも新聞部よりは清浄な空気がするー。」
遠峯がうんうんと、うなずき、スーハーとわざとらしく息を吸う。
俺は眼鏡レンジャーを探した。一番前列に横並びに座っている。あいつらだけがやはりちょっと濃い。やつらは黙々とドイツ語辞書を読んでいた。辞書って読み物なんだねー。うん。筋金入りだ。悲しいかな、俺と同じにおいがする…。
しばらくざわついていた教室が、小林先生の登場で一瞬で引き締まった。
佐々木先輩の「起立、礼、着席」という掛け声が終わり、一拍あいた後に、小林先生が「GutenAbend!(こんにちは※夕方の挨拶)」と声を発した。
生徒達が大きな声で「GutenAbend!(こんにちは)」と挨拶を返す。
そこからは、本当にただただ真剣な語学の授業が始まった。
小林先生、なんだよー。ドイツ語、めっちゃ話せるじゃん。
途中ちょっと面白かったのが、先生の「今日の朝ごはんは何を食べましたか?」という質問に、ある生徒が該当する単語がわからないので、その場で自分で単語をとっさに作って答えたところ、先生がその造語に対して「ひどい」と思わず日本語でつぶやいたことだ。
小林先生…。「とっさに口をつくのは日本語じゃん」って思ったのは俺だけじゃないはず。
その造語は目玉焼きをそのままドイツ語の単語に直訳したものだった。当然ながら目玉焼きとしては認知されない。ドイツ語で目玉焼きはSpiegelei(鏡卵)というらしい。割った時の姿と焼いたときの姿が瓜二つってことで「鏡」なのかな。日本語の「目玉」のほうがわかりやすい気がするけどな。
ちらっと遠峯に目をやると机に体をつっぷして全力で寝ていた。なんなら、かすかにイビキも聞こえてくる。
マジか…。寝るなよ…。
白石に目を移すと彼女は…なぜかキラキラした目でノートを一心不乱にとっている。
え?ガチにドイツ語を学んでいないか?
両極端な二人の行動。予測不能だ。面白いなー。
俺はそっと席を立ち、HPにアップするために授業の様子をカメラへおさめた。
小林先生がカメラを意識していちいちポーズをとるのが正直に言ってだるかった。ポージングが絶妙に決まっているのが妙にイラつく。絶対ナルシストだよね、この人。
生徒からは好意的な笑いが起きていたけどね。和気あいあいとして楽し気な部の様子が見てとれる。
つつがなく授業が終わり、僕らは取材を開始する。
小林先生を含め数人の生徒が残ってくれていた。
インタビューは我らが白石。よどみなく、小林先生に質問を投げかけていく。
「どうして生徒にドイツ語を教えるようになったのですか?」
「大学生の時に留学して得難い体験をし、またドイツの人々にとても親切にしてもらった為、わずかだけれど両国の架け橋になるような活動がしたかったんだ。」
「小林先生はそもそもどうしてドイツ語を学ぼうと思ったのですか?」
「ドイツには日本との共通点がたくさんあるのを知って、興味がわいたんだ。民族的には質実剛健と言われていて日本人と気質が似ているし、歴史的には敗戦後に復興を成しえたところも同じだ。また明治のころに日本は多くのことをドイツから学んできた。実際に今もそれが活きている。医学のカルテもちょっと前まではドイト語だったしね。」
二人の会話は、息がぴったりで聞いていて心地よい。なんだか俺もドイツに行ってみたくなってきた。
おおげさな身振り手振りな先生の話し方も今日は気にならなく、むしろ情感たっぷりで好印象だった。
最後、話が取材というより雑談になった時に、白石が何気なさを装って小林先生に尋ねた。
「私のピンクの髪をどう思いますか?」
「似合っていて、とてもいいと思うよ。」
小林先生が答えた瞬間、白石は大きな瞳をさらに大きくした。
白石はちょっとうつむき加減になって、てれたようにうわずった声をだす。
「ほかの先生みたいに、否定しないんですね。」
「僕が留学していた時のルームメイトはパンクだったんだ。すごく良いやつでね。見るたびにピアスが増えていってね。髪の毛も前髪の一部を残して前ぞりで、めちゃくちゃ奇抜だったよ。でも不思議と彼に似合っていた。だから自己表現に関しては自由にやっていいと思うんだ。ただ、彼の場合、ネオナチがくると即座にフードをかぶって逃げていたけど。逃げるくらいならやらなきゃいいのにってちょっと思っていたけどね…。毎回フードのついた服を着るっていう縛りもあったしね…。」
「ええー。ネオナチとパンクって敵対しているんですか?」
「当時はそうだったよー。」
「ネオナチって見た目でわかるものなんですか?」
「僕も熟知しているわけじゃないからなー。スキンヘッドで悪そうな感じなのがいるとそうかなって感じかなー。」
「それ、ただの禿げただけの人との違いが…わからない!うけるー!」
白石が心底楽しそうな輝いた笑顔をみせた。
瞳に光が宿り、きらっきらしている。
これは…loveなやつだ。遠峯をみると愕然とした顔をしていた…。
俺は人が恋に落ち、また失恋するという瞬間を初めて同時に目の当たりにした。
遠峯…ドンマイ。
明暗分かれる二人の温度差に地味にハラハラしながらその日は過ぎていった。
「おっさんに、負けるのか…。」
つぶやく遠峯。
本当に…ドンマイ。
取材後白石に、
「ちゃんと真面目に記事を書かなかったら、私が承知しないからね!」
と、謎の脅しをうけた…。
おまえ、自分が取材前になんて言っていたのか忘れたのかよ…。
まさかの手に平返しに俺はひきつった笑顔をかえす。
こうして俺たちの初めての取材はなんとか無事に終えることができた。後日、俺がまとめた記事も問題なくHPに人知れず、アップされた。
アクセス数は相変わらず雀の涙。
せっかく書いたのだからもっと日の目が当たっても…よいのでは…。そんな考えもよぎるけれども。いいのだ。これでいいのだ…。
余談だが、取材の翌日に、なんと白石は突然あっさりとドイツ語文学研究部へ転部した。なんの未練も見せない姿は、あっぱれである。
そして現在、人目をはばからず積極的に小林先生のおっかけをやっている。
「先生が悪く言われたら嫌だから」と、あれほどこだわっていたピンクの髪を真っ黒にもどしたことに驚愕した。
黒髪にした白石はびっくりするほど清楚に見えて…。印象が激変している。
女子って恐ろしいと俺は密かに思った。
白石はもともと地頭がよい。今ではドイツへの大学進学に向けて、かなり真面目に勉強しているらしい。
情熱のままに突き進む彼女の姿は清々しく美しい。
白石は自分のやりたいことをようやくみつけたんだな。
自分に正直に生きる姿が眩しくみえる。
そして、残されたのは灰となった遠峯。
「グラビアアイドルと恋愛するんだ…。」
彼のささやくような強がりを俺はスルーした。
瞳が爆笑しすぎていて、ちょっと気の毒だった。