第1話
春、近頃じゃ温暖化の影響で、入学式に桜咲くってことがなくなった。もっぱら卒業式に桜を眺める気がする。
四月、県下きっての名門校に入学を決めた俺。当たり前だ、何せガリ勉だったからな。
制服は学らんだから、一見中学の制服と代わり映えしないように見えるが、よくみると校章が詰襟の左にキラリとあるんだ。女子は昔ながらのセーラー。紺に白のリボン。こちらも一見名門校だと分かりにくい。
都会じゃ、名門私立が幅を聞かせているらしいが、地方じゃまだまだ県立の伝統校は水戸黄門の印籠並の威力を発揮する。
どんな威力かって?こんな逸話がある。だらしない格好した男子学生に、通りかかったおばさんが荷物を持たせてしばらく歩かせていたんだそうだ。田舎だからな。
「ところで、あなたどこの学校に通っているの?」
と、聞くおばさん。
「乾坤館高校です」
と学生が答えるのを耳にするや否や、おばさんはあわてて態度をがらっとかえ、
「あら、荷物なんてもたせてごめんなさいね」
と、学生から荷物を奪うように取ると、そそくさと足早に消えたんだと。これ、ホントに聞いた話だぜ。
まあ、威力っつっても、たかだかその程度だがそれでも地元じゃかなりな威光を示す。
我が校の歴史は長く、古くは江戸の藩校にまでさかのぼる。
話はそれるが、自由民権運動が吹き荒れた時代、当時全国各地で政治結社が誕生したんだが、我が県でも歴史に残る政治結社があったんだ。彼らは独自の信念と理想を持ち、アジア諸国の独立支援を行い、かつ我が国の政治にも時には武力で介入するなど、今の時代からはちょっと考えられない過激な一面や豪胆さをもっていた。俺、この結社大好きなのよ。熱いんだ。私財を投げ打って、民の為に政治を変えようっていう志がね。間違ったことも、むちゃくちゃなこともするんだけどさ。とにかくその根底が熱いんだよ。
で、何が言いたいかっていうとその政治結社も我が校からの輩出者が母体となっていたりするってわけ。俺は俄然、この高校への憧れを強くした。
また、個人的なことだが俺の父も祖父も代々みんなこの伝統校の出身なんだ。それで俺がこの高校へ入るのは至上命題ともいえ、受験はかなりのプレッシャーだった。
当時、受験関連のCMで、
「志望校が母校になる」
って、キャッチフレーズが流れていたんだけど、俺今正にその通りになって、人生で一番絶好調かもしんない。
って、どきわくしていた四月。
人生そんなに甘くない。俺なにせ、ガリ勉だったからな。コミュニケーション能力ゼロ。中学で一緒だった奴らに俺のことを聞いても、きっと誰も俺のことなんて覚えていないんじゃないかってぐらいに影、ものすごく薄い。
他人と話をすることが苦手でしょうがない。誰と話す時でも極度の緊張が襲い掛かり、声が震え裏返る。目は泳ぎ、かなり挙動不審になってしまうんだ。
あ、そういう意味では中学が一緒だった奴らに覚えられているかもしれない。きもい奴がいたってね。
自分で言っておきながら、自己嫌悪だ。
緊張のあまり慌てふためくと更なる悪循環。
今日もたまたま同級生に声をかけられ、俺、慌てふためいてしまった。落ち着け自分って言い聞かせているのに、何もない廊下でこけて眼鏡を割る始末。
目下の課題はホント、人と話をどうやって接すればいいかってことだ。
そんなわけで、今割れた眼鏡のレンズで顔を切り、保健室で治療を受けているところ。
今頃学年全体のオリエンテーションをやっているはずだ。応援部っていう男子部員のみで構成された部があるんだが、彼らが竹刀をふりまわし、徹底的に学校校歌をたたきこむっていう行事。
「乾坤館高校。校歌第一番、始めー」
ってな感じの団長のかけ声を合図に手拍子等を合わせ学生一団となって声の限りに校歌を歌う練習だ。完璧なる手拍子と掛け声と歌。この三拍子はとても重要だ。学校行事には必須。俺、父親から聞いていて、密かに憧れていたんだよね。この学校に入学して最初の有名な伝統行事をとても楽しみにしていたんだ。
なのに切った自分の血を見て貧血に陥り今は保健室の天井をぼんやりながめているしかない。ああ無念。
まぁ、校歌を大きな声で歌えるかどうかは謎なんだけどな。人前で声を出すのなんて俺にとっては至難の業。どんだけ寡黙なんだよって自分でも思うんだけど、なんともしがたい。
ぼんやりと顔を横に向けるとそこには窓。窓に映る青白い痩せこけた顔。ちっとも魅力がない容姿。ああ、嫌だ。どんどん自己嫌悪の悪いループに陥りそう。
そんな時、
「君自身のせいだ。ばかちんめ」
と、声が頭の中で響き渡った。
「な、なんだよー。だ…だ…だれだよー。」
視線をさまよわせつつ、裏返る声で答える俺。つくづく情けない。
「ああ、本当に情けないな!」
なんと、俺の思考に答えるかのようにまた声が響く。なんだ、なんだ。俺がきょどっている間にまた声が聞こえた。
「なんだって、言われてもね。君の目だよ!」
はぁ?目?俺はこわごわと起き上がり、窓に映った顔を眺める。そこには代わり映えのしない俺。不安そうな瞳。
「そうだよ。瞳って、内面の輝きだったり、その逆だったり、心を映す鏡だからね。
だから、君にはもっといい男になってもらってさ。僕自身が輝きたい!」
意味不明。ついに俺は幻聴を聞くようになったんだろうか。
「幻聴じゃないよ。だから、僕は君の目なんだって。君を構成する目の細胞の代表格さ!」
はぁ?ますます意味不明。俺は俺だし。何?多重人格だったりする?もしかして。でも俺、記憶飛んだこととかないしな。
「だから、何度も言っているじゃない。君の目なんだって。
体の細胞にだって意志はあるんだよ。
あんまり君が不甲斐無いから、今日はちょっと文句を言ってやろうと思ってね。」
不甲斐無いのは認めるけど。文句ってなんだよ。俺のくせに。
「まぁ、君なんだけど、君じゃないんだ。
文句って言うのはさ。まず、メガネだね。
君さ、視力いいのに対人恐怖症を理由に伊達メガネをかけるのいいかげんやめようよ。レンズ越しにすることで外の世界と距離をとろうって魂胆なんだろうけどね。
あんまり意味ないじゃない。
結局緊張して、話す相手の目をまともに見られないんだから。
そろそろそんな不甲斐無いところを卒業してほしいんだよね。」
そうは、言われても。何か遮るものがないと不安じゃないか。
そうとも、とてつもなく不安だぞ。
「せっかくメガネも割れたことだし、今がいいチャンスじゃないかと思って出てきたんだ。」
いいよ、ひっこんでいてくれたままで。
なんだか頭がおかしくなりそうだ。
「いいや、ひっこまないよ。君、思考の段階ではとても男らしいのに、どうしてそう無様な言動ばっかりしてしまうのか僕、見ていてはがゆくて、悔しくてね。
だから、まずは僕が君をサポートして行こうかと思って。」
サポートって、必要ないし。ただ生活することだけでこんなに必死なのにこれ以上の混乱を持ち込まないで欲しいよ。
「いいや、君は君の細胞の頂点にいるんだよ。君の細胞がどれだけあるか知っているかい?」
知らないけど。嫌な感じの話の流れだな。
何?そういえばさっき「まずは」って、言ったな。これから手や足なんかが主張してきちゃうわけ?はは。…まさか。
「そのまさかだよ。みんな君には不満を持っているんだ。
だってそうだろ?この体は完璧なのに。操縦者がうまく利用できていないんだ。
君には本当にもったいない。
みんな、もう黙っていられないってね。」
やめてくれ、そんなに色々文句言われたら、俺立ち直れない。打たれ弱いのを知っているだろ?って、いや俺つかれている。気のせいだ。気のせいだ。きっと環境の変化によるストレスってやつに違いない。
「いい加減に現実を受け入れようよ。…聞き分けないと、乗っ取っちゃうよ?」
そう言うと、瞳が俺の意思とは関係なしにまぶたに覆われてしまった。正直、かなりのショックだぜ?俺の背中に汗がつっと流れた。…気がした。
閉じた瞳の中で俺はなぜかたくさんの幻を見ている。しかも全部俺自身の部位だ。やめてくれ、俺自身の解体なんてみたくない。ばらばら状態なんてえぐいだけだぞ。
その暗闇に輝く二つの瞳。
「やあ、僕がさっき君と話していた君の目だよ。」
そ、そうか。うん。確かに俺の眼球だ。うん。眼球。あのさ、コレもっと脳内イメージメルヘンにできないかな。ちょっと、刺激がきついんだけど。
「あ、オッケー。これでどう?」
アニメのような淡いイメージ画像に切り替わった。ああ、これならまだいけそう。うん。さっきより大分まし。分かった。俺も男だ。人との対話なら厳しいが、せめて自分との対話くらい自信をもって臨もうじゃないか。
だって、とりあえず、俺が一番偉いんだろう?
「偉い?うーん。まぁそうだね。僕らが大人しく君に従えばの話だけど。」
なんだよ。俺の考えることはつつぬけなのか。プライバシーもへったくれもないな。納得し難い状況だ。
っていうか、さっきの話。聞き捨てならないぞ。大人しく従わないつもりなのか?俺を心のどこかに閉じ込めて勝手に操る、なんてことをやっちゃおうってのか?
すると、眼球はパチクリ瞬きをした。…まぶたついているのか。
「それをしてもいいけど、とりあえず僕ら自分自身であること、君の体の部分であることには満足しているからね。
今のところその気はないよ。…今のところね。
君、変わってくれなくちゃ。チェンジだよ!チェンジ!ふふ。」
「そうだ!チェンジだ!」
「そうだ、チェンジだ!」
「そうだ。そうだ。」
複数の声があちらこちらから重なった。みると、俺は無数の俺自身に囲まれていた。
「ふふふ。
そう、たじろがないでよ。ゆきぴろ。」
笑い声の主は瞳だ。
「ゆきぴろって呼ぶな!」
「だって君、悲しくなるほど半人前なんだもん。もうちょっと、しっかりしたら改めてあげるから、がんばってよ。
ね、怖がらないで見渡してみて。
ちゃんとみて、みんな君自身なんだ。そして、中にはどんどん死んで行く細胞達もいる。君の体は絶えず死滅し再生しているんだ。君の気付かないうちにね。髪の毛はぬけるだろ?爪は生えかわる。多くの消えゆく細胞の為にも、君は責任を感じなければならない。
認めたくはないけど、君がこの体の頂点にいるんだからね。」
俺は、言われた通り見渡してみた。
形をなしていないもの。そして、様々な俺を形作るもの達を真剣に見つめた。俺の手、足、腕、凄く小さなものに至るものまで。
「はい、いいよ。みんな御苦労さん。とりあえず、今のところ僕がゆきぴろ担当だから。」
瞳がそう言うと、みんなすっと視界から消えた。
俺は、いつのまにかつめていた息をふっとはいた。呼吸するの、忘れていた。
しかしまだ一つ、俺に対面している奴がいる。瞳だ。
自分の目って、何度見ても違和感ありまくりなんだけど。うーーん。
「ゆきぴろ。そんなに、瞳に違和感があるなら、ちょっと僕を擬人化してみてよ。僕にイメージをつけてみて。」
イメージ。そうだな。ティンカーベルの男版みたいな感じがいいな。…威圧感なさそうで。すると、もくもくと煙が瞳を隠していった。
イメージ。イメージ。
煙が消えた時瞳は、緑のかわいい帽子をかぶった羽の生えた妖精になっていた。帽子からは鮮やかな金髪がこぼれている。それは短くはね、くるくると、かわいいハート型の顔を囲っている。瞳は鮮やかなブルー。羽は虹色に輝き、緑のワンピースには銀のスパンコールがふんだんに飾られていて、きらきら、きらきら。
瞳は己の姿をまじまじと眺め、苦笑した。
「…シニカルな割に、意外とかわいい想像力を持っているんだね。」
そんな言い方されるとちょっとむかつくな。
「まあ、そういわず。気にいったよ。こんなにかわいいなら、「瞳」ってよばずに、ひらがなの「ひとみ」って呼んでよ。」
「おまえが、ゆきぴろって呼ぶのをやめたらな。」
「あ、それは嫌。」
「じゃ、こっちもなしだ。交渉の余地はないぞ。」
「いけずな子だね。」
「…」
「あ、そうだ。僕、君の監督役だから。
期限は高校3年間。その間にもっと魅力的な人間になってよね。
その為に、課題を与えるよ。
その一、夢をみつけること。但し、人の役に立てることね。
その二、友達をつくること。せっかくの高校生活なんだから。今までみたいに一人でいても仕方ないでしょ?
その三、恋をすること。今どき、初恋もまだなんて正直終わってるから。ここで一発、ときめいちゃいましょう。
その為に、まずは人と話せるようにならないとね。」
質問していいか?
「どうぞ。」
期限ってなんだ。期限内に課題をクリアできないと、ペナルティーでもあるのか。
確かにまともな課題ではある。まぁ、俺の目指すところとおおむね一致はしている。俺だって、俺だって、本当は友達が欲しいし、恋もしたいさ。
なんの為の高校生活だ?青春する為だろう?
…熱くなってしまった。落ち着け、俺!
しかし、簡単に人と話せというが、どうしろっていうんだ。まず、そこから大きくつまずくんだ俺の場合。
「それについては、僕が助け舟を出すから、まずは隣の席の女の子に話しかけてみなよ。
校歌の校歌の練習どうだった?ってな具合にさぁ。」
隣の席。隣の席はどんな子が座っていたっけ。
って、最初のハードル高くないか?
いきなり女の子だなんて、…む、無理だ。絶対無理。
「大丈夫だよ。隣の席の子、女の子に分類されないタイプの子だから。
君は目に映ったものを認識していないようだけど、僕はばっちりさ。彼女ならうってつけだよ。なにせ、異性を感じさせないタイプだから。」
異性を感じさせないタイプ。…一体どんなタイプだ。そこまで言わしめるとは、ある意味興味が湧いてくる。
「それはいいことだ。じゃ、寝ていられないよ。さっさと起きて、教室に戻るんだ。」
おお。そうだな。
おっと、最初の質問に答えてないぞ。期限ってなんだ?
「ふふ。『善は急げ』だよ。さぁ、起きて!」
なんだよ。答えないのか。気持ち悪いじゃないか。
「ほら、早く!」
そこで、視界が意思に反して勝手に開いた。くっ、光が目に飛び込んでくる。眩しい。
あ、そうだ眼鏡。俺の大事な眼鏡。
眼鏡がないと、裸で町を歩くようなものだぞ。俺、羞恥心で消えてしまうに違いない。
無…無理。今日は、もう早退するぞ。
「そんなことにかまってないで早く!」
俺のベッドの上に、小さくちょこんと瞳の奴が実体化して座っている。瞳は俺の、そでをひっぱって、
「ほら、行くよ」
っと、せかす有り様。
ちょっと、待て。幻覚か?そうだ、何かの間違いだ。全て、夢だ。俺は夢をみているんだ。
「このごに及んで、何をしのごの言っているの。
そうだよ。幻覚に決まっているでしょ。君の脳に頼んで君だけに僕が見えるように細工してもらったんだ。
何せ、僕は君の瞳だからね。君といつでも共にいるよ。分かった?
分かったら、ほらさっさと行くよ。」
俺の心は決まった。
なんというかその瞬間に諦めたんだろうな。とにかく、思考をやめた。うん。考えるのは止めよう。
脳に細工ってなんだ?ってつっこむのも。
とりあえず、現状をありのままにうけいれとこう。はっきりいって、この有り様、俺の許容量をはるかに超えているからな。
保健室の先生が声をかけてきた。
「あら、貧血治ったの?よかったわ。
まだ顔が青いわね。大丈夫かしら?
本当に行くの?」
五十代の優しい女の先生に俺は情けない蚊の鳴くような声で、
「…はい」
としか言うことしかできなかった。
ぎこちなく頭をさげて教室を出ると、授業中の時間帯なのか廊下はしんとしていた。
この校舎は明治に建てられたもので、廊下はみしみしときしむ。階段は大きな大理石をふんだんにつかってあって、手すりには細かい彫刻がされてあり、繊細なその装飾に俺はいつもほっとする。
「はい。はい。はい。はい。ひたるのは、そこまで。
そんなの今は置いといて。
ほら、さっさと戻るよ。」
何をそんなに急ぐのか、まだ授業中ではないか。
きっと例の校歌の指導で誰もまだ教室に戻ってないさ。それよりも、この手すりのひんやりとした手触り、これそ大理石ならではの持ち味。
「はい。はい。はい。はい。うっとりするのも、そこまで。
…正直きもいから。」
あ、きもいって言ったな。それ、人に言っちゃいけないんだぞ。なぜって?ダメージ大きいからな。きもいとか、うざいとかってさ。結構しばらく立ち直れないんだからな。
あれは、中学一年生の時だった、俺はいつものように…。
「はい。はい。はい。はい。回想するのも、止めて。また無意味に殻に閉じこもろうとするんだから。
…なんだか僕、ちょっと頭にきた。
実力行使にでちゃうもんね。」
うんうん。実力行使ね。
なんだと?実力行使?
「足君達!超絶ダッシュ!今こそ見せて。
ゆきぴろがどんなにすばらしく走れるのかを証明してよ。
他のみんなも協力してね!」
「ガッテンダ!」
野太い声がしたかと思うと、俺の体は俺の意思に反して軽やかに、しなやかに走りだした。
それは、もう風のように。
すると、走り去った方角から荒々しいドアの開く音がした。
「廊下を走っているのは誰だ!」
げっ、ちょっと、なんか恐そうな先生が吠えているよ。
ねぇ。瞳~。
「無視♪無視♪」
結果、すさまじいスピードで、俺は教室へとたどり着くことができたのだった。幸い、恐そうな先生にもつかまることなくね。入学早々、目とかつけられたらどうするんだ?
困るな。ずっと、優等生できているのに。
ってゆーか、俺必至で走ったの初めて。肺に空気足りない。息できてないし。これ死ぬ。死ぬ。絶対死ぬ。
俺は誰もいない教室でぶったおれるはめに陥った。
「もう、おおげさなんだから。」
大の字に寝転がった俺を、瞳の奴がくるくるした目で覗き込む。
「このー!」
そう言って、瞳の奴は人差し指で俺をつつく仕草をする。
幻覚だから、つつかれても実際にはつつかれたと感じないのか。なるほど。
っていうか、何つついているんだって話だよ。くそ。むかつく。一体、誰のせいでこんなことになっているんだと思うんだ。
どのみち思考はつつぬけなんだが、改めて瞳に悪態をつこうとした俺に、瞳とは別の声がかけられた。
「あれ?走ってきたの、山根君だったんだ。
意外。どうしたの?何かあった?」
見ると、眼鏡をかけたぽっちゃり系のこけし顔の女の子が近づいてきた。俺、直後にフリーズ。
「あれ、山根君固まっちゃった。ふふ。おっかしー。本当に緊張しいさんだね!」
横で瞳が般若の形相で俺を睨みつけている。
話せってことだよな。なんだよ。睨むなよ。恐いじゃないか。
なぜかその時、彼女に対する恐怖よりも瞳に対する恐怖の方が勝ったのだ。
俺は仕方なく彼女に話しかけた。また、蚊の鳴くような声で。
「あの、ごめん。…俺、あがり症で。」
去ろうとしていた彼女は振り向き、近づいてきた。
「山根君がしゃべったの、初めてみた。驚き!」
俺が、もじもじしていると、彼女は話を続けた。
「山根君って、不思議で、話してみたかったんだよね。
私、山根君と中学一緒なんだけどなぁ。
ああ、その様子じゃ初めて知ったって感じね。
クラスも同じだったんだけど…。
まあ、無理もないか。山根君だもんね。自己紹介するわ。
私、山田銀子。
席が隣なんだけど…。
あ、それも今気付いたって感じね。
うん、山根君だもんね。うん。」
彼女は俺の反応に怒るふうでもなく、いちいち納得してくれた。
山田銀子。山田銀子。…知っているぞ。名前は知っている。
「うそ、君って、試験の度に学年一位だった人だ!」
「そうだよ。万年二番だった山根君♪」
そう言って、山田銀子はおたふくのように笑った。
瞳の言ったことがなんだか分かったような気がする。
彼女はなんだか、異性を感じさせないというより、もはや人間ではないような気がしてきた。だって、なぜだかもうおたふくにしか見えない。
あ、おたふくも人間なんだけど。なんていうか、さ。もどかしいな。俺の言いたいこと、なんとなく分かるだろ?
そんなわけで山田銀子、彼女は人外の生物=おたふくとして俺の中にカテゴライズされたのだ。
そしてなぜだかその瞬間、俺は初めて人(?)とまともに話すことができるようになった。
「君が、山田さんだったんだね。
俺学年一位とれないのがすっげー、悔しくて、毎回毎回テストの度に君を意識していたのになぁ。
いまごろ君を知るなんてどうかしてる。」
すらすら話す俺に、山田銀子は、固まっていた。
いや、わかるよ、親にもこんなに気楽に話すことなんてないからな。俺だって不思議なんだ。
山田銀子はぽかんとした表情で一言。
「普通にしゃべれるんだね!」
「だね。不思議。しゃべれるみたい。
山田さんは、どうしてここにいるの?」
「ああ、校歌の練習ね、さぼったの。
だってたるいじゃない。私、ああいう熱い系苦手なんだよね。根っからのインドアタイプだからさ。
あれ?山根君、眼鏡してないけど?」
「ああ、われちゃってさ。」
「そうなんだ。それで、目の近く切っちゃったんだね。痛々しいなぁ。
黒板から席遠いけど、大丈夫?」
入学早々で席は出席番号順だった。俺達の席は教室のドアから遠い窓側の後ろの席にある。ヤ行だから山根と山田で隣どうしなのかと変に納得。
「うん、意外と平気。
視力、実はちょっと悪いぐらいでホントは眼鏡なんかかけなくても大丈夫なんだ。」
「そっか。へー。眼鏡じゃない山根君って印象変わるんだね。
私、眼鏡かけてないほうが好きだな!」
その瞬間、俺は真っ赤になってしまった。
例え相手がおたふくでもだ。
女の子からそんなす…、す、…好きだなんて言われると…。
分かっている。分かっている。なんの他意もないことなんて百も承知さ。
だ…、だけど、だ…、だけど、血が逆流してどうしようもないのだ。
「山根君、純だね。真赤っか!」
そう言って、山田銀子はかわいい声でコロコロ笑った。俺はどぎまぎするばっかりだった。
無事に一日を終えて帰宅。瞳は満足したらしく、山田銀子との会話を終えて以来、でてこない。
やれやれ。とりあえず、ほっとした。
ガリ勉の俺は、帰宅後も一に勉強、二に勉強と、いつも通りの手順で一日をこなす。
「幸博。
お風呂、入っちゃいなさい!」
母に言われて、風呂に入ることにした。母はてきぱきした人で、さっさと行動しないと機嫌が悪くなる。俺は言われてすぐに風呂に入る準備をした。
風呂に入って体を洗った時、妙に己の体を意識した。
日々、入れ替わる細胞かぁ。
俺は、少なくともたくさんの俺自身の為に、立派に生きる責任があると妙に強く意識した。まぁ、人間急には変われない。少しずつ変化していこう。
「幸博。
ご飯できたわよ!」
せっかちな母の声で我に返った。おりこうさんな俺はいそいそと風呂からあがるのだった。