異端者の山
山の天気はすぐ変わる。先程までの雨が嘘のように晴れわたった空。木漏れ日が足元のぬかるんだ土に残った足跡を照らす。木々や草花の呼気は薄っすらと霧の漂う風景に溶け込んでいる。そこには男の足音と野鳥の囀りしかない。しかし鬱蒼とした杉の森にも限界はある。視界は急に開けた。目の前には大きな岩。険しい岩肌だが、どこか優しい表情をしている。
表面が湿っぽいから今回はやめておこうかな。
乾ききっていないその全体を見て、彼は心のなかでこぼす。表面が濡れていては指や足を引っ掛けるときに滑るし、手につけるチョークも固まって岩肌についてしまう。せっかくの景観が台無しだ。手元の課題解説の本に目を落とす。そこには猿山岩という見出しがあった。人の手が入る前はこの岩を中心に猿がたくさん生息していたそうである。彼がリュックに本を入れ、帰ろうとすると、何かが視界の上の端で揺れた気がした。振り子のように振れたそれは細い鎖のような物だった。ネックレスだ。何故ここに、彼は咄嗟に疑問を浮かべる。誰かが遊び半分であそこにかけたのか? それとも猿がいたずらでひっかけたのか?
とてもではないが気になって夜眠れそうにない。
大げさではあるが、本気でそう思った。元来細かいことが気になってしまう質なのである。彼は早速準備を始めた。本のコースを組み合わせて頂上付近のネックレスまでの経路を計算する。そしてその下に落下時のマットを敷き、シューズとチョークポーチを装備する。課題の難易度としては難しくないが、ウォームアップ無しで挑戦するには無謀だったかもしれない。ホールドの形も思いの外握りにくい。しかし止め時を探る考えはない。指のチョークを切らさないように、かつ腕の負担を減らすべく足の置き場を慎重に変える。
ゴールに手がかかったのはアプローチを始めてから15分経ったときだった。一回目が失敗しても諦めなかった彼の意地の勝利だ。もしかしたら見かねた天使が梯子をかけてくれたのかもしれない。早速彼はゴールの戦利品に手をかける。間近で見ると思いの外小さく、かけていた人物は小柄な女性ではないかと推察できる。しかしなぜこんな所に? 彼は不意に嫌な予感に襲われ、後ろを振り返る。しかし、無理な体勢が災いしたのだろうか、はたまた雨上がりの自然のいたずらか。足が滑り、彼は片手でゴールのホールドを辛うじて握りしめる。空を漂う足の下にはマットがあるが、ずれている。このまま落ちれば足を痛めることは必至だ。彼は慎重に、しかしできるだけ急いで体を左右に振り、手を離す。果たして、彼はゴールポストに弾かれたバスケットボールのごとく緩やかな曲線を描き、マットの真ん中に着地する。衝撃をこらえ、トレッキングシューズに履き変え、靴紐も丸めて中に押し込める。
冗談じゃない。彼はリュックを肩に引っ掛け、僅かに濡れたシューズとマットを掴むと一目散にその場を離れる。これは勝利の戦利品ではない。杉林に紛れて揺れる白いものが脳裏にちらつく。
あれは確かに血と汚れが着いたボロボロの白いワイシャツだった。