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#2 New World

あぁ、また始まった。

お腹が鳴る音は、世界で1番嫌い。

自分でコントロールしきれない煩わしさに、思わず腹を殴りたくなる。

“お前は生きているか”

この問いに自信を持って「いいえ」と答えられないのは、この空腹のせいなのだから。


君への想いはもう、届かない。そんなの分かってるんだよ。

でも何で満たしたらいいのかが、分からない。ずっとずっと、分からない。

だから本能のままに、手を伸ばしてしまう。…お腹が鳴っているんだもの。


これは…寂しさ? 怒り? 嫉妬? 情けなさ?

何かは分からないけれど、とりあえず心も体も満たそうとして、吸い込まれるように食べ物が口に入っていく。あぁ、醜い。私の胃が、こんなにたくさん求めていたなんて。私は今、生きている。生きてしまっている。

食道を全て埋めるくらいまで押し込んで、やっと楽になる。隙間だらけのジクソーパズルのピースが、全てはまったような気持ちになる。

このまま消化されるのを待ってしまおうか。全てを取り込んでしまおうか。

太ったら、嫌なことも何もかも、その大きな体で受け入れられる気がしたから。


—いいんじゃない?

—いや、ダメだ。何やってるんだよ。さっさと吐き出せ

—でも、楽になれる

—おい、お前が楽になってどうする?もっと苦しめ。さっさと吐け

—嫌だ。このまま太りたい

—ダメに決まってる。さぁ、吐け

—嫌だってば

『…マナちゃん、ずっと側にいて?』

『今日も可愛いね、マナちゃん』

『膝枕してよ』

—ほら、みんなお前を待ってる。求めてる。だから、吐け。吐くんだ


嫌だ。いや、いやいやいやいやいやいや………っ!


君はもう私を求めないのに、客はこぞって私を求める。湿った「マナちゃん」という声が、耳の裏に張り付く。

もう辞めたい。全てを辞めたい。この嬉しい息詰まりの感覚の中で、目を閉じてしまいたい。

…でも、やっぱりそれはできない。


私は1人じゃないから。お母さんを守れるのは、私しかいないから。シングルマザーで病気がちのお母さんに、お金は稼げない。私が「マナちゃん」であることを辞めれば、生きていて欲しい人を失ってしまう。「マナちゃん」であるには、肥満は大敵だ。


食道の充足感を惜しみつつ、全てを吐き出す。…あぁ、またいつもの”声”に従ってしまった。吐くのをやめようとすると、必ず聞こえてくるんだ。

吐くことにも慣れたから、すぐに終わってしまう。食べることと吐くことは、生きているってことを嫌でも感じさせる。食べ物の匂い、食感、咀嚼の音。食道を逆流する感覚。全身が食べ物を感じてしまう。この感覚は、止められない。


ジクソーパズルがまた隙間だらけになった状態で、仕事に向かう。

客の湿った声は、隙間に気持ち悪く染み込んできた。

これを埋められるのは、食べ物と、君だけなんだよ。




仕事を終えて帰宅したら、お母さんが消えていた。


『ごめんね、びっくりしたでしょう。お母さんね、やるべきことをやって、新しい世界に行くことにしたの。でも私はずっと愛の味方。愛の力になりたいの。大好きだよ』


置き手紙を握り締め、ハッと思ってベランダに出て下を見たけれど、華奢な彼女の体はなかった。

自分だけ、ずるいな。…でも、お母さんだから許してあげる。

私も大好きだよ、お母さん。全てを理解してくれて、愛してくれた唯一の人だから。



気付いたら部屋を出ていた。なぜか、部屋から追い出されたような気がした。

鍵はもうないのに、足が勝手に動いていた。プログラミングされているみたいに。


律儀にインターホンを鳴らそうとする自分に笑ってしまった。客以外の前で笑ったのは、いつぶりだろう。…多分、君といた時以来だよ。

ドアは開いていた。おかしいな、几帳面な人なのに。


躊躇なく、部屋の中をずんずん進む。

ベッドに横たわる君を見つけた。電気が消された部屋の中、白かったはずのベッドがちょっと変色している。

君…ずるいよ。でも……ありがとう。

長らく触れられなかった君に近づいて、背中を抱き締める。やっと君に会えた。やっとまた、私のものになってくれる。

じんわりと温かくて、ちょっと鉄の臭いがするけれど、やっぱりここが落ち着く。食道を塞ぐ時よりも、ずっと満たされた感覚。ジクソーパズルの隙間が、あっという間に埋まっていく。



もう、無理しなくてもいいんだ。この世界に用はないのだから。

すごく、すごく楽になった。



お腹が鳴る音が聞こえる。この世界で1番嫌いな音。

でも今は、心地良いとさえ感じるの。

このままじっとしていれば、君を抱き締め続けていれば、私も新しい世界にたどり着けるはずだから。

大好きだよ、2人とも。


今なら、自信を持って答えられる。




“お前は生きているか”という問いに。

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