第27話.ショタコンの知らぬ闇の話
ひやりと肌に触れる濃霧漂う木々の合間を、フード付きの黒いマントに身を包んだ男が歩いている。
目深に被ったフードと前を掻き合せたマントのため、その人相は窺い知れない。
一寸先は白い霧に閉ざされた様な森の中を、男は慣れた様子で歩いていた。まったく迷う気配が見受けられないことから、この森をよく知っているのか、何かに吸い寄せられているのか、そう考えられる。
湿った落ち葉の敷き詰められた道なき道を進み続け、目指していた場所に辿り着いた男はフードの下でニヤリと笑った。
彼の目の前には苔むした石造りの扉の様なものが建っている。それは隆起して小さな山の様になった土に半ば埋まっているような状態だった。まるで小山の中に入るための扉の様である。
石造りの扉の苔に覆われていないところには、細かな模様が描かれている。しかしそれらは蝙蝠のものに似た翼を持つ奇妙な形の生き物の姿や、槍で串刺しにされた小柄な人物の様子など、見ていて気持ちのいいものではない。
男はしばらくその扉を眺めていたが、やがて数歩進み、扉に右手を付けた。
『開け』
魔力のこもった言葉と共にざわりと空気が揺らめいた。ここの大気は極端に精霊が少ない。しかしその少ない精霊たちが悲鳴をあげて逃げていく気配がする。
代わりに揺らめいているのは黒の魔力の粒子であった。邪悪な闇の力……邪神を信奉する者が持つ、絶対悪の魔力である。
男の身体から溢れ出した闇の魔力が扉の表面に吸い込まれていく。灰色の石扉に吸い込まれた闇は、その表面の気味悪い模様に流れ込んでそれらを不気味な紫色に煌めかせた。
それを見て男はクツクツと喉を鳴らす。
すべての模様が紫に染まった直後、ゴゴゴゴ……と低い音を立てながら石扉がゆっくりと開き始めた。中から、底冷えする不気味な冷気が漏れてくる。
完全に左右に開ききった石扉の先には、地下へと続く暗い石の階段があった。男は迷いなくそこへ一歩を踏み出していく。
「待ちなさい」
その時、男の背後でかさりと枯れ葉を踏む音がして、次いでその背に冷ややかな声が掛けられた。
「…………」
「そこは人間が踏み入って良い場所ではありません。去りなさい」
「……黒の森の番犬か」
そう言って男は振り返る。口許には微かな笑み。嫌な形に歪んだ唇からは一種の狂気に似た気配がした。
男が見た先、そこには一頭の大きな黒い猟犬を連れた魔女が立っている。
さやりと霧の混じる風に揺れる長髪は見事な紺碧。胸元に掛かる長い襟足だけが氷の様な銀色をしている。
暗がりでも爛々と輝いている瞳は満月の黄金色だ。血の気の薄い青褪めた美貌であった。
すらりとした痩身を装飾の少ない黒いローブで包んでおり、少しだけ広がる裾から覗く足は素足で、しっかりと地面を踏みしめている。
黒い猟犬は子牛ほどの大きさがあり、赤く光る目を男に向けてハッハッと短い息を吐いていた。その口にはずらりと鋭い牙が並んでいる。
「生憎、お前の命令を聞く気はない」
そう答えて男は闇の魔力を周囲に展開した。空気が蠢き、不気味な黒い光の粒子が辺りを漂う。
頬を叩いたその魔力に、黒の森の番犬と呼ばれた魔女は目を細めた。
「……仕方がありませんね」
直後閃く鮮烈な紺碧の光。一瞬で距離を詰めた魔女の手が男の首を掴んでいた。その高速移動に伴った風が遅れて魔女の髪と男のマントを揺らす。魔女の耳元にきらりと煌めいたのは金色の耳飾りだった。
「速いな」
「ライラプス」
名を呼ばれて飛び出したのは大きな黒の猟犬。魔女に捕まえられている男に飛び掛かってその頭に噛み付いた。
ゴキッと骨を噛み砕く音。しかしその後に噴き出したのは赤い血潮ではなく、黒々とした闇の魔力の奔流であった。
「これは」
「く、くくく、はははは。なるほど、恐ろしい番犬がいるものだ」
「…………」
「今日は良しとする。また来よう」
ざわりと姿を消した“男の死体”だと思っていたものから視線を上げ、魔女は辺りを見渡す。男の笑い声は全方向からぐわんぐわんと響き渡り、本体がどこにいるのか判断が難しい。
「……ライラプス。行って」
轟、と低く吼えて黒の猟犬ライラプスは駆け出した。この黒の森は、魔女と猟犬の領域である。本気になれば居場所を探るなど難しいことではなかった。
ライラプスが枯れ葉を散らしながら駆け出すと同時に、魔女はその白い素足でダンッと地面を踏み鳴らす。
それによって宙に満ちている黒の森の魔力が震え、すべての感覚が魔女に伝わるようになった。彼女は金の目を閉じる。
黒々とした幹を持つ木々の合間を、白い濃霧に紛れて闇の粒子の塊が移動しているのが分かる。
(この人間は、かなり深くまで闇に染まっている……確実に仕留めなければ)
その闇をもって、あの封殿の中のモノを起こす気だったのだろう。それだけは赦されない。魔女は黒の森の大地にその強大な魔力を巡らせる。
闇の粒子の塊をライラプスが発見して追跡を開始していた。魔女は木々を、霧を操って逃げる闇の粒子の塊の移動を妨げる。
ライラプスの力強い四肢が地を蹴り、その度に大地の魔力が鳴動していた。猟犬の咆哮は空気を震わせ、逃げる獲物の気力を削ぐ力を持っている。
根の一本が塊に絡んだ。捕らえた、と目を開いた魔女の姿は次の瞬間にはその場所に移動していた。
追い付いたライラプスが塊に噛みつく。すると黒が解けてマント姿の男が現れた。
「お前はあれを起こす気なのですね」
「くくく、どうだろうな」
「あれの信奉者の中でも、ここを見つけた者は少ない。そこまで闇に染まってしまえば、戻れなくなりますよ」
ライラプスの顎に肩を咥えられながらも、男はクツクツと笑っている。魔女は不快そうな表情でそれを見下ろした。
「戻る必要はない。あのお方が目覚めればこの闇こそ真の力となるのだから」
「……憐れですね。お前一人、そんな闇ではあれを起こすなど到底無理な話です」
「そうだろうとも。だから、今日は下見に来た」
その言葉に魔女は訝る様に目を細める。
「今度は確実な“鍵”を持って来る。それからお前たちを殺そう。黒の森の番犬」
「“鍵”?」
笑っていた男が地に伏したまま魔女を見上げた。歪んだ笑みを顔に張り付けたままで。
「心臓だ。あと一つで足りる」
「!!」
目を見開いた魔女に男はまた喉を鳴らして笑い、次の瞬間には自分の影に沈む様に姿を消してしまった。
噛んでいたものが姿を消し、ライラプスは困惑したように魔女を見上げる。存在としての半身である猟犬の頭を撫で、魔女は顔を顰めていた。
(……『精霊の愛し子』が生まれたのね)
地下深くにある封殿の底では、古代から長きに渡って少しずつ信者の闇を蓄えてきたあれが身動ぎを始めている。
まるで、もうすぐ目覚めるという時の寝返りのように。
あの男が残した“あと一つ”という言葉はあながち間違いではないかもしれない。そう思うとざわつく様な焦りが魔女の心を乱した。
「……主に、訊いてみなければ」
そう呟いて、魔女と猟犬の姿がふわりと霧に溶けた。一人と一頭の一対が向かう先は彼等の主人の元。彼等に「封殿を守れ」と命じた者のところだ。
バイルダート王国の北の果て。人が踏み入ることを赦されない、濃霧に閉ざされ、黒々とした木の並ぶ黒の森。
かつて精霊たちの力によって、この地の底に邪神が封じられた。深く深く、決して目覚めることのない、暗い暗い底へ。
そして封じた後、精霊の一人が自身の力を切り分け、人と犬の姿をした番人を作り出し、黒の森に置いた。
それが黒の森の番犬。魔女と猟犬の揃いで一つの存在である、古代の精霊の創造物だ。
これを作った精霊と言うのが。
「……たとえあれが目覚める可能性があったとしても、俺の愛し子には手を出すな」
「しかし……」
「愛し子は俺が守っている。下衆共に奪われるようなへまはしない」
「…………」
さらりと流れる絹糸の束の様な黒紫の長髪。風のようにやって来た魔女と猟犬に向けた目は、魔女のものと同じく満月の黄金色をしている。
「分かったら帰れ。あそこまで辿り着くような奴が歩き回っているなら、森を離れるのは愚策と言わざるを得ないな」
「……分かりました」
手首の金環を揺らしながら追い払う様に言い、魔女と猟犬の主人は腕を組んでしまった。
場所はバイルダート王国の王都ゴーデミルスの真ん中、国立シェイドローン魔法学園の隠れた庭の木の上である。
フッ、と来たときと同じように姿を消した黒の森の番犬。自身のものに良く似たその気配が遠退くのを感じながら、主人――――闇の精霊ノワールは溜め息を吐いた。
「……あと一つのところまで来ていたか。どうにか手を打たなければな」
まったく、いつまでも心を煩わせて止まない奴だ、と邪神を罵る。
何であれ、アイリーンに手出しはさせない。なんとか正攻法で手に入れたいので、魔力で作った蝶を彼女の周囲に飛ばしておくことで見張っているが、反応は少しばかり遅れる。
(……さあどうするか)
彼はそう呟いて目を閉じた。




