第6話.ショタコンと壁ドン
人気のない場所まで思いっきり走ってきて、一気に人の話し声等の喧騒から離れた。
そんな私たちの耳に届くのは、風が木の葉を揺らす微かな囁きにも似た音と、互いの呼気の音だけ。
「じゅ、重要な話って、何、かな……」
荒い呼吸を繰り返すアーノルドは(多分彼は相当体力が無いのだ)手を離した私にそう聞いた。
私は焦りに加え、結構走ったことで脳内麻薬でも分泌されていたのか、アーノルドをここまで連れてくるという暴挙に出た挙げ句、更に血迷ったことをした。
「っ、ア、アイリーン?!」
アーノルドの肩を掴み、すぐそこにあった校舎の赤レンガの壁に押し付け、私の頭よりそこそこ高い位置にある頭の横に両手をドンッである。
俗に言う壁ドンであった。
俯いて、ふしゅーっと息を吐いた私は、戸惑いから固まっているアーノルドをゆっくり見上げた。
橄欖石の目には困惑の色、兄に似ているがそれより柔和な白皙の美貌は若干青褪めている。
そりゃそうだ。いきなり「重要な話がある」と言われ、人気の無い場所に連れてこられた挙げ句、年下の女の子に壁ドンされているんだから。
「私が……」
しかし私は焦っているのだ。君の心中など察してやるものか。
「私が、特殊体質だと、貴方に教えたのは風寮長ですか」
人気が無いとは言え、学園の敷地内である。私は『精霊の愛し子』を『特殊体質』と誤魔化して訊ねた。
アーノルドは聡明な青年である。
核心をぼかした問いでも、私が何を訊きたいのか悟ったようだ。
「そうだよ。そう言えば私は、君に何も言わずにあそこにいた。怖い思いをさせてしまったね」
「一応聞きますが、学園長の許可は?」
「きちんと確認したよ」
「…………」
はぁぁぁーーーっ!!!
よかったぁぁぁーーーっ!!!
レオンハルトもそこまで考えなしではなかったということだ。良かった。心底ホッとした。
私はアーノルドを壁ドン状態から解放して、その場にへちゃりと座り込んだ。
安心して腰が抜けた。
それから、サーッと全身から血の気が引く。
やってしまった!!
攻略対象(しかも王子)を壁ドン?!
やっちまった!!
どうしよう。
私はアーノルドを見上げることができずに俯いた。
好感度ダダ下げならいい。
むしろ歓迎、大歓迎。
この女壁ドンしてきた……怖い、とかそんな顔をしていたら最高だ。
けれど穏やか系王子の王族意識が唐突に覚醒して「不敬なり」とかになったら……
最悪私の首と胴体は永遠の仲違いだ。
こんなところで死ねないっ……
「……アイリーン」
ひっ!!
名を呼ばれて、私は思わずギュッと身を固くした。
―――――………
アーノルドが現れた瞬間、アイリーンが目を見開いて「重要なお話が!!」とか言いながらアーノルドの手を引いて全力で走っていってしまった。
レオンハルトは去り際に押し付けられた書類の束を思わず抱き締めて、きゅっと不満げに眉根を寄せる。
「あらまあ……」
ギルバートの妹(名前は覚えていない)がおっとりと笑って、それにつられたのか婚約者のジェラルディーンも呆れた様な表情で笑った。
レオンハルトにとってはかなり笑い事ではない出来事である。
(アイリーン、何故アーノルドを?! 接点はほとんど無いだろうし……と言うか“重要な話”とは何のことだ?!)
レオンハルトは混乱している。
「お、追いかけ――」
「あら、いけませんわ殿下」
歩き出そうとしたレオンハルトの腕をジェラルディーンがガシッと掴んだ。鷲の爪の如し素早さと正確さであった。
「な、何故だ」
「アイリーンは“アーノルド様”にお話があると場所を変えたのです。その意味がお分かりにならない殿下ではありませんでしょう?」
「だ、だが……」
ラタフィアは、ジェラルディーンの言葉に顔を段々と青くしていくレオンハルトをニコニコ眺めていた。
(何ともまぁ……お可愛いこと)
アイリーンを他の誰かに取られるのが怖いのだろう。
今まで王太子として欲しいものは――自由を除いて――何でも手に入れてきた彼にとって、アイリーンは初めて、自分の力でしか手にすること叶わぬものであったのだろうとラタフィアは考える。
レオンハルトは負けず嫌いだ。
それがどんな戦いであれ――ここでは恋愛である――何としても勝利したいのだろう。
(けれど……)
ジェラルディーンに舌鋒鋭く切り込まれて、しどろもどろになるレオンハルトを見ながら、ラタフィアはくすりと笑んだ。
(アイリーンは、今のところ、どなたにも興味がないみたいですわ)
口元に手をやり、青風信子石の目をうっそりと細める。
(彼女が私の義姉になったら素敵ですわ……)
ラタフィアは綺麗なものが好きだ。
そして彼女は賢く、目敏かった。
少し前から、兄がアイリーンを見る目に特別な気配を感じていた。
水属性の名門カスカータ家にとって、血統よりも重んじられるのがその魔力の純粋さである。
アイリーンは、最上級の青玉の粒を連ねた様な、美しく透き通った水属性の魔力の持ち主だ。
(まだ、お兄様が勝つ可能性は十分にありますわね)
ラタフィアはそう考えて笑みを深める。
アイリーンは隠しているつもりらしいが表情がくるくると目まぐるしく変わる少女だ。
勿論、隠したいと思っているから、その変化は微々たるものである。
しかし、そんな微妙な表情の動きからその内心を推測することは、ラタフィアには容易かった。
そこから考えるに、アイリーンは男性に熱烈にアピールされることを面倒に思っているようだった。
特にレオンハルト。彼が近づいてくると彼女は明らかに「うへぇ」という顔をするのである。
不思議なことにレオンハルトにはその表情変化が見えないようで、いつも適当に受け流されていた。
反対に、騎士道精神にのっとり、あくまでも紳士的にという態度を貫いている兄・ギルバートには特にそう言った顔をしないのである。
これは大きい、とラタフィアは思った。
(ふふ、どうなることやら)
さて、レオンハルトが叱られた子犬の様な顔になってきたので、そろそろ助け船を出してやらなければ可哀想だ。
「ラタフィア、何を考えているの?」
声をかけようとしたらジェラルディーンが振り返った。
その言葉にきょとんとしたラタフィアはふわりと笑んで答えた。
「秘密、ですわ」
怪しむ様な友人の鮮やかな紅の瞳に笑みを向け、ラタフィアは「その内お話致しますわ」と言った。
(さて、アイリーンは今、何をしているのでしょう?)
第二王子相手に無体を働いていなければいいが、と考える。
ここで第二王子に無体を働かれる、という方向へ思考が向かわない辺り、ラタフィアはアイリーンをよく理解していると言えよう。
そして彼女の懸念する通り、第二王子相手に無体を働いたアイリーンは、未だ顔を上げられずに頭を全力で働かせていたのであった。




