第6話.ショタコンと恐怖
止まらない冷や汗と、血の気の引いていく感覚に動けないでいる私に、学園長は再び語気を強めて「来て」と言った。
学園長の机の真ん中に鎮座しているつるりとした透明な水晶玉。
私には、それが途轍もなく怖いものに見える。
それは何故か。師匠に聞かされた寮分けの儀式の話のせいであった。
――寮分けの際には『魔水晶』の玉を触ることになる。それは、触れた者の魔力の属性と量を示す魔導具の一種じゃ――
――え、じゃあ私はどうしたら……――
――水属性の魔力をそれとなく込めればバレるまいよ――
――分かりました!!――
大丈夫、と自分に言い聞かせる。
師匠も言っていたじゃないか。水属性の魔力を込めればバレないって。
ごくり、と唾を飲んで一歩を踏み出す。
震えすぎて、踏み出した右足に体重を込める時にカクッと身体が傾ぐかと思った。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……
一歩、進むごとに自分に暗示をかけていく。学園長の何もかもを見透かしそうな珪孔雀石の目を見ることができない。
四人の寮長の視線も突き刺さる。大した距離じゃないはずなのに、学園長の机は物凄く遠く感じた。
一段一段、まろやかな象牙色をした石製の段を上がり、そっと顔を上げれば学園長の机はもう目の前だった。
「アイリーン、顔色が悪いわ。大丈夫、何も痛いことをするわけじゃないから」
そう言った学園長からは甘やかな紅薔薇の様なにおいがした。
たっぷりとしたフリルが覗く黒いローブの長袖から出ている繊細な手が、すっと水晶玉を指し示す。
「これに触れて、魔力を込めてみて」
その言葉はまるで死刑宣告の様に、ゆっくりと、重く、私の喉を圧迫した。
「っ……」
「学園長、一体何を? 彼女はかなり体調が悪そうですが……」
短い呼吸を繰り返す私を気遣ってギルバートがそう言った。そちらに目を向けた学園長はゆるゆると首を振る。
「見てみなければ、分からない」
「ですが彼女が水魔法を使うところをロジエス教授が見ています。他の新入生と一緒に大広間で儀式に参加するのでは駄目なのですか?」
「黙っていて。そんなに簡単な話ではないのよ」
そう言われたギルバートは、納得がいかないのか少し顔をしかめた。
しかし、結局は学園長の指示に従うことにしたのか、口をつぐむ。
「さあ、アイリーン」
私はビクッと肩を揺らした。
呼吸は浅くなるばかり。
苦しくて、視界は暗く、狭くなる。
ここに、この場に、隠れ邪神ファンがいたら。
顔を上げて周囲の人たちを見回す。学園長と四人の寮長。
学園長は彼らを信頼できると言った。
でも、もし学園長本人が隠れ邪神ファンだったら?
私の『精霊の愛し子』としての力の片鱗を何かによって視て、確信を得ようとしているとしたら?
ま、まだ死にたくない。リオが、立派に大きくなるのを隣で見ていたいんだ!
泣きそうになりながら、目を閉じて右手に魔力を集める。
身体の中心から溢れている泉の様な魔力を、外部の者に悟られる前に深いところで水属性に変換。
うっすらと青の魔力光を放つ掌を、震えながら水晶玉へ向ける。
大丈夫、大丈夫……
「アイリーン、それは本当に貴方の常の魔力なの?」
「っ?!」
油断なく私を見つめていた学園長が放った言葉に集中がぶれ、手に集まっていた魔力が散ってしまった。
つーっとやけに冷たい汗が一筋、血の気が引いているのに変に熱い頬を流れ落ちる。
恐る恐る学園長を見ると、彼女は酷く真剣な目で――それこそ怖いほどの目で、私を見つめ返していた。
「あ、あの、わたし……」
できない。
自分の命がかかっているという途方もない重みを三年間、師匠に重ね重ね教えられてきたから。
どうしたってできない。
私は、こんなところで、命を危険にさらしたくないから。
「もうやめてくれ!!」
その時、普段だったら相当嬉しくなかったろう声が私と学園長の間に割り込んだ。
そして、この時ばかりはその声がとてもありがたくて、私は声の主に泣きそうな顔を向ける。
「殿下でもこればかりは――っ、どこへっ?!」
レオンハルトは私の手首をあの日の様に掴んで、ずんずん歩き出した。学園長の制止がかかるが完全無視である。
「あ、あの……」
「何も言うな。ついてこい」
三年ぶりに私の手首を握った彼の手は、あの時と違ってとても大きく、そして温かかった。
―――――………
バタン、と扉が閉じて、学園長室に、しんと沈黙が降りた。
「……学園長、何故彼女の魔力について、そんなにお気になされるのか?」
重たい沈黙をその言葉で払ったのは、困惑に透石膏の目を瞬いているエドワードだった。
意気消沈したように溜め息を吐いた学園長は力無く苦笑して、再び溜め息を吐く。
「……もしかしたら、彼女は、この学園で危険に晒されるかもしれないの」
「「「!!」」」
その場に残っている寮長三人の目が鋭くなった。
さらりとした黒髪に指を通して、メルキオールが口を開く。
「……それ、昨日の話と関係ある?」
「ええ、まさに、そのことなの」
「そんなに関係がある話だろうか?」
辛そうに頷いた学園長にエドワードは首を傾げた。
同じく怪訝な顔をして首を傾げたメルキオールが途端、ハッと息を呑む。
「え、まさか、そんな……嘘でしょ? 有り得ない……だって、それは……」
「む、メルは早いな。流石だ。俺はまったく分からないから教えてくれないか」
「……ぁあ。そういうことですか」
「むむ?! ギルも分かったのか?!」
見事に一人置いていかれているエドワードに、ギルバートは重々しく「恐らく」と答えた。
「昨日の話……この学園に、邪神信徒が入り込んだと言う話でしたね。エド、考えてください。邪神信徒が側にいて、最も危険に晒される存在とは?」
「邪神信徒がいたら皆平等に危険だと思うが…………っ、なるほど。メルがそう言った反応をするのもよく分かった」
そういうことか、とエドワードは白と黒で調えられた制服に包まれた逞しい胸の前で腕を組んだ。
寮長は、成績優秀者が選ばれる役職である。これだけの条件を揃えられれば、後は簡単に分かった。
「……はぁ。流石、優秀ね貴方たち」
学園長は再び溜め息を吐いて、頷いた。
それは彼らの仮説を正しいと肯定する頷き。三人は目を見開いた。
「じゃあ、本当に、そうなの……? 嘘、だって、四百年も生まれてないんでしょ? 実在なんて……確かめられない、伝説の存在じゃん……」
「だが、学園長が視たと言うことだろう」
メルキオールは「有り得ない」と首を振って考え込んでいる。紅玉の瞳は伏せられたまつ毛の下で暗く翳る。
エドワードは「認めるしかあるまい」と目を閉じて重々しく言った。
「…………『精霊の愛し子』」
ギルバートがそっとかすれた声で呟いた単語が、学園長室に乾いた音として静かに響いた。
その後訪れた沈黙は、無言の肯定であった。




