第10話.ショタコンの弟と精霊
家族が皆寝静まった夜。
ふと優しく頬を撫でる様な予感に、ぱちりと目を覚ましたリオはベッドの上で身を起こした。微かに虫の声の聞こえる、静かな深夜である。
(……?)
ぬくい眠気に菫色の目をしぱしぱと瞬いて、リオは自分が何故目を覚ましたのか不思議に思い首を傾げた。
柔らかな金の髪がその動作のもとさらりと流れて、夜の青さの中できらきらと淡く輝く。
彼の、ぼんやりと寝ぼけたあどけない表情は、姉であるアイリーンが見たら「ッヅゥン!」と訳の分からぬ声を上げること間違いなしであったが、幸いなことにこの場に彼女はいない。
寝る前に「お姉ちゃん、いっしょにねよう?」と訊きに部屋へ行ったら何やらゲッソリしてすでに眠っていたので、花丸満点のいい子であるリオは「つかれちゃったのかな」と姉を気遣い、一人で眠ることを決めたのであった。
これをアイリーンが聞いたら「っ、私は何てことをっ!!」と地に伏して泣き、リオに縋り付いて「ごめんねぇぇぇ」と謝ったことだろうが、これまた幸いなことに彼女がこれを聞くことはなかった。
さて、ぼんやりと窓なぞ眺めている間にリオはしっかりと覚醒し、何やらビビッとくる未知の予感にベッドを下りた。
小さな白い足を部屋用の柔らかな靴に差し入れ、足音を忍ばせて部屋を出る。菫色の瞳は好奇心に煌めき、それはもう最高に可愛らしかった。
(うーん……?)
心赴くままに歩き、リオは一階に下りて広々としたそこでぽつねんと立ち止まる。何やら予感はするが正体が分からない。
(お姉ちゃんが「変な感じがするときは気を付けなきゃ駄目だよ」って言っていたけど、これはその“変な感じ”なのかな……)
少しばかり不安になってリオは唇をきゅっと引き結んだ。
その時、彼の視界の端……外気を取り入れるため開け放された木製の窓の辺りに何かきらきらとしたものが映った。
ハッとしてリオはそちらに駆け寄る。
(もしかして、お手紙を運んでくれるちょうちょさん?)
その予想は的中した。
窓辺のリオが見つめる先、深い夜の青の中を、ふわりひらりと黒紫の蝶が飛び交っていた。
まるで自ら光を放つように煌めく美しい翅、漂う紫の光粒。妖しく、幻想的な光景であった。
リオはしばし目を真ん丸にして蝶の飛び交う様子に見とれる。
「きれいだなぁ……」
「おおそうか。そりゃあ嬉しい」
「!!」
思わず口をついて出た感想に、思わぬ近さから返事があって、リオはその場でピョンッと跳ねた。
はからずも、彼の姉が数時間前にしたのと同じような跳び方であった。流石姉弟である。
「くく、驚かせてしまったか? すまんすまん」
「え、えっ……」
窓を挟んで、リオの向かいに姿を現したのは、リオが見たこともない不思議な青年だった。その瞳は鮮やかな黄金色で、アイリーンの魔眼によく似ていると思った。
「お、お兄さん、だれ?」
「俺は……いや、名乗るのは止しておこう、あとが怖い」
そうだなぁ、と言って青年は考え込むそぶりを見せる。リオは警戒しながらも、どこかアイリーンに似た気配を持つ彼に興味津々であった。
「うん、俺のことは蝶々のお兄さんと呼んでくれ」
「ちょうちょの……っじゃあ、あのちょうちょさんたちはお兄さんのお友達なの?」
「友達、と言うとちょっと違うが……まあそんなものだな」
「わぁ……すごいねぇ、お兄さん」
きっと魔法なんだろうな、と考えたリオはそう言って「蝶々のお兄さん」を眩しそうに見上げた。
この子供……リオの持つ炎の魔力は、アイリーンを水底から自分の領域へ引きずり込もうとしたときに彼女を守るように溢れ出したものだ、と思い出していたノワール。
(……幸いにも、俺のことは分からないらしいな。良かった)
そんなこんなで会話をしていたら、リオが「わぁ……すごいねぇ、お兄さん」と言って微笑んだ。
うっとりと目を細めたリオの可愛らしい表情を、ノワールは何故か息を止めて見つめてしまった。
(な、なんだ?! 心臓の辺りが今猛烈にギュンッとしたぞ?!)
未知の感覚であった。ノワールは混乱している。
「お兄さんは、ええと……お姉ちゃんともお友達なの?」
「うーん……それは難しいなぁ……」
質問にそう答えると、リオはこてんと首を横に傾けて「?」と不思議そうに目を瞬いた。ノワールの心臓の辺りがまたギュンッとした。
「でもな、俺は君の姉を守る存在であることは理解していてくれ」
「お姉ちゃんを守ってくれる……」
「ああ」
リオはノワールの言葉を自分なりに考えているようだった。幼いながらに聡明さを宿した表情で、少し目を伏せた彼は小さな声で繰り返す様に「お姉ちゃんを……」と呟く。
やがて、彼の中で何らかの結論が出たらしくリオは顔を上げた。
「僕もね、お姉ちゃんを守るんだ。でもまだ僕は弱いから……だから、僕がお姉ちゃんをちゃんと守れるようになるまで、お兄さん、お姉ちゃんをよろしくね」
「おお……」
何だか色々な言葉が脳内を駆け巡ってしかたがない。彼の長い精霊生でこんなのは初めてである。
そしてノワールは一つの単語に行き着いた。今までは、聞いても何のことやらと不思議に思っていた単語だ。
(これが……“尊い”か)
闇の精霊は、自身の心の奥底で目覚めようと呻く「抱きしめてぇ」の衝動を必死に抑えて、リオの頭をポンポン撫でた。
「……もう寝ろ。人の子は寝て育つものだ」
「うん。おやすみなさい、お兄さん」
「っ、おやすみ」
手を振りながら去っていくリオを見送ったあと、ノワールは家の壁に背を預け、その場にずるずると座り込んだ。
悪ふざけが過ぎてアイリーンに怒られてしまったから、彼女が大切にしている弟を取り込んでしまおうと打算まみれで近づいたのに。
(どうしてしまったんだ、俺は)
打算まみれの心を、こう、ほわぁぁみたいな感じで浄化する、“尊い”という不思議で暖かな未知の感情を抱きしめて、ノワールはしばらくその場で頭をかかえたのであった。




