第9話.ショタコンと女装(語弊あり)
最初に感じたのは、ふわりと香る妖しげな甘いにおいだった。
「はぁい、殿下」
そして背後から掛けられた、これまたどろりと甘い声。振り返ろうとしたレオンハルトの肩を、柔らかくて小さい手が素早く掴んだ。
「恥ずかしいから振り返らないで」
「…………」
「あら? 驚かないのね」
耳元に触れるしっとりとした唇が不思議そうに声を漏らす。背中にふにっとした柔らかなものが押し付けられた直後、レオンハルトは全身に金雷を纏った。
「きゃあっ!」
背後の者が悲鳴を上げて離れる。レオンハルトは冷たい目でそれを振り返った。
床に流れ落ちるほど長く、黒紫水晶の色をした髪に、透き通るような白い肌、魅惑的な黄金色の瞳をした美女が、横座りの様な体勢でレオンハルトを見上げていた。
怯えた様な白皙の美貌は、聖女の清らかさと娼婦の婀娜っぽさとの、相反する魅力を湛えた極上のもの。
しなやかな肢体を包む黒の衣装と金の装飾がまた、その女の艶やかさを引き立てていた。
しかしレオンハルトはその美女を見下ろして不愉快そうに顔を顰めた。
「貴様、そのふざけた姿は何だ」
彼の言葉に、上目遣いで震えていた美女は一瞬の間を置いてから「チッ」と盛大に舌打ちをした。
「はー、まったくつまらん」
少しからかってやろうと思ったのに、と続けて、美女はにんまり笑うと瞬く間に白い煙に包まれた。
ふわりと白煙が晴れた後、そこには妖しく笑みを浮かべるノワールが胡座をかいて座っていた。
「慌ててくれたら良い土産話になったんだけどなぁ」
言いながらからから笑ってノワールは腕を組んだ。金の腕輪がしゃらんと涼やかな音を立て、ひらひらとした衣装の裾が柔らかく宙に漂う。
レオンハルトは更に顔を顰めて「くだらないことをするな」と答えた。翠玉の双眸には隠しきれない「帰れ、くそ野郎」という言葉が浮かんでいる。
「貴様の魔力の気配は覚えた。その程度の変装では騙されんぞ」
「おお、やっと覚えたのか。随分と時間がかかったなぁ」
明らかに怒らせようとしている彼の言葉に、一瞬ピクッと眉を寄せたレオンハルトであったが、乗せられては駄目だと頭を軽く振り「それで、用は何だ」とこの時間を早く終わらせる方向へ話を進めた。
成長である。ちょっと前の彼ならば「貴様ぁぁっ!」と言ってためらいなく魔法をブッ放していたと思う。紛うことなき成長であった。
それに気づいたのか、ノワールは一瞬笑うのを止めて少し目を見開き、新種の珍妙な生物でも見るような目をしてレオンハルトをまじまじと見上げた。一国の王太子に向けるには不躾で失礼すぎる視線だった。
どうやら立つ気は無いようで、ふかふかの絨毯の敷き詰められた床に胡座をかいていたノワールは、満足するまで目の前の新種の珍妙な生物『セイチョーシタ・レオンハルト・オウタイシ・デンカ』を眺め、やがて「ふ、くくく」と笑い出す。
「はははっ、なるほどな。俺の愛し子がおのれの師と弟に会うのを許すわけだ!」
「何……?」
「いいぞ、面白かったから俺もお前を許してやろう! これを預かってきた!」
人ならざるもの特有の上から目線でそう言って、ノワールはひらひらした衣装のどこかから取り出した手紙をレオンハルトに差し出した。言うまでもなくアイリーンからの手紙である。
「これは、アイリーンからの……」
「用はそれだけだ。じゃあな」
ここには長くいたくない、と呟いてノワールは白煙に包まれて姿を消した。
部屋に一人残されたレオンハルトは、しばし手の中の手紙を見つめていたが、やがて大きな溜め息を吐いた。
(何なんだあの精霊は。ジェラルディーンは何故簡単にあれの相手ができるんだ?)
どっと疲れた気がする。しかし休んではいられない。レオンハルトはキリッと表情を引き締めてアイリーンからの手紙を開けた。
(……この候補の中だと、行けそうなのは二週間後か)
いくつかの日付を記した手紙には「絶対にリオに謝ってください」「リオを怖がらせるようなことはしないでください」等、彼女が弟を思う言葉が多く書かれていた。
アイリーンはそれほどまでに弟を大切にしているのだな、とレオンハルトは静かな面持ちで文字を眺める。
「弟、か……」
ついこぼれた言葉を、首を横に振ることで打ち消し、レオンハルトは部屋を出た。
予定をきちんと決定せねばならない。今度こそ間違わないように、言葉を選んでおかなければ。
―――――………
めっちゃ美味しいチキンサンドを食べたあと、私たちは魔法操作の訓練をして午後を過ごした。
そしてやって来た夜。自室で、師匠に借りた学園の図書館にも無いような本を読んでいたら、コンコン、と窓が叩かれた。
ここ二階なんですけどぉーー!
本を閉じ、立ち上がって窓に近づく。開けないままに、そろりそろりと外を覗いてみるけれど誰もいない。
あはぁ。ノワールでしょ、知ってる。
二階の窓をノックするとか、こんな怪しいのノワールくらいだもんね。
バーン、と窓を開けて(これは動作の形容であって、その実ちゃんと静かに開けたからね!)顔を出す。
うーん、窓付近にはいないみたい。なんだなんだ、どこへ隠れた?
「こんばんは」
「ホギャップルゥェイッッ?!(小声)」
そこへ突然背後から蕩けた蜂蜜みたいな甘い声をかけられ、ぎゅっと抱き締められて、私はとんでもない悲鳴を上げてその場で跳んだ。
背後から私に抱きついている奴もろとも跳んだ。
「なっなっなっなっ」
「くくく、かわいい」
「ピッ」
動揺しまくりの私に、多分美女だろうなって想像できる艶っぽい声が笑って、伸びてきた手が頬をくすぐる。
せっ、せなかに、すっごくやわやわでむにゅっとしたすげぇやつが!!
「そんなに動揺して……いったい、何を想像しているの?」
細い指が頬から顎へ、首筋を伝って胸元へ下りてくる。手慣れた様子で白いブラウスのボタンを外し始めた指に焦った私はもぞもぞ動き、何とか推定美女の拘束から逃れようと試みた。
いいか?! 生粋のショタコンである私は、お色気美女耐性が無いんだ! 分かったな! これ、テストに出るぞ!!
ぼぼっと熱くなる耳に触れる冷たい柔らかな唇、腰を捕らえる左手に、器用にボタンを外し続けている右手。
おおおおちつけ、わたし。
こんなの、冷静に考えて人間の所業じゃないと思う。浅くなる息を少し整え、背後の気配を探って、私は早々に真顔になった。
「光よ」
短く言葉を放つ。部屋中に大量の銀の光球が浮かんだ。スタジアムもかくや、と言わんばかりの光量であった。
「っう!!」
途端に、私に張り付いていた者が呻いて離れる。スタジアムの如し目映さの中で冷静にボタンを止め直し、私はくるりと背後を振り返った。
「何してんの、ノワール」
「すまん、光を弱めてくれ……」
「先に言い訳を聞いてやろう」
「っ、からかいたかっただけだ! 同じことをした時の王太子が少し面白くなかったから!!」
それを聞いた私は真顔のまま、少し光量を絞ってやる。芋虫のように床に転がっていたのはいつも通りの姿のノワールであった。先程の推定美女形態を思うに、こやつもしかしたら変身し放題なのでは?
はぁーーっ、その能力もっと有効活用しろよください。ショタとかショタとかショタとかさぁ!!
あとさらっと流しちゃったけど同じことをレオンハルトにしたの? えっ、大丈夫だった? 主にレオンハルトが。
ノワールは弱まった光の中、もそもそと顔を上げて「悪かった」と呟く。
動揺させられ過ぎて、ちょっと仲良くしてやる気が失せたので、机に残しといたクッキーの包みを彼の手に押し付けて「帰って」と言う。
「アイリーン、こ、これは!」
「お礼。手紙届けてくれてありがとう。でも、女装(語弊あり)して襲ってきたのは許さないからね」
「じょ、女装じゃないぞ! ちゃんとあちこち女に……」
「帰って」
「うっ……」
ノワールは呻き、しばらくそこでもじもじしていたが溜め息と共に去っていった。
はぁ……
女の人相手には乱暴にできないんだ。ショタコンだから、第一はショタ、第二が女の人なのよ。女子供に優しいんだぞ私は。
だからいくらノワールでも女性形で正面から来られたら困る。
私は深々と溜め息を吐いて、本の続きを読む気も失せたのでベッドに身を沈めた。




