第8話.ショタコンと同時刻に
走る、走る。柔らかな土を蹴り、倒木を飛び越えて、伸び放題の草花をはね除けるようにしながら走る。
流石夏であった。虫がすげぇ。
見えてきた泉は鮮やかな青色。吸い込まれそうなほどのその青の中へ、息を整える暇もなく木のバケツを入れて水を掬い上げる。
散った水飛沫が夏の日差しにきらきらと煌めいた。その涼やかさを楽しむ間は与えられていない。
くるりと身を翻し、再び走り出す。夏の日差しが肌を刺し、揺れる一括りにした髪を風が通り抜けていった。
バケツが重い、ただひたすらに重い。
森を抜けた先に見えてきた家の前の大きな水瓶へ、木のバケツの中の水を入れる。
「っ、てりゃあっ!!」
運んだ水は木のバケツ十杯。勘を取り戻したものの、やはりハードな水運びは私の手足をぷるぷるにした。
「おお、早かったのう」
水瓶の隣で、器用に水魔法を応用して涼しそうにしている師匠が笑う。白くて形の定まらないミストを傘みたいにして頭の上に浮かせているのだ。
絶対涼しいやつやん。いいな、後でやってみよう。
その時、森の方から「っおねえ、ちゃ、はやいっ……」という息も絶え絶えといった様子の声が聞こえてきた。
シュバッと振り返れば、緑の木々の隙間から、鮮やかな金色が姿を現すところであった。
「っ、また、かてな、かった……」
水が入った木のバケツを抱え、頬を真っ赤にして、はぁはぁ言いながら走ってくるリオ。頬を伝い、顎の先からぽたりと汗が落ちている。
「帰ってきたのう。やはりお主に比べると成長が早い子じゃな」
ここのところ、私とリオは水運び修行で競争をしているのであった。年の功と身体の大きさのお陰で、今のところ私の連勝である。
いやー、私としては、リオは守らなきゃいけない大切な尊い最高の弟だから、気持ち的に絶対負けられないんだけど、リオは男の子だから悔しいみたい。
私が十三歳だった時よりだいぶタイムが良いので気にしなくていいと思うんだ。その内、きっと私は勝てなくなる。
ざばぁっと水瓶に水を注ぎ、リオはその場にころりと転がった。
「私は大きいからね。バケツ運びの大変さが違うんだよ。だから、ここまで迫っているリオはすごい」
「そう、かな……」
「うん」
リオの隣に寝転んで、師匠のミスト傘を見よう見まねで作ってみる。
「おぉう……涼しい……」
結構な大きさになったミスト傘。降り注ぐ霧が火照った肌を冷やしてくれる。めちゃめちゃ快適だ。
ちらと隣のリオを窺えば、彼はミストを透かして降る日の光に両目をキラキラと輝かせて傘を見上げている。
「わぁ……すずしいね、お姉ちゃん」
「うん、便利だねぇこれ」
そんな私たちをニコニコして見守っていた師匠が「さて」と立ち上がった。何じゃらほい、と目を向ける。
休憩はもう終わりだろうか。正直なところもう少し休んでいたい。両手足がぷるぷるなので。
「そんな分かりやすい顔をするでない。昼食にしようと思っただけじゃ」
「……私、そこまで分かりやすい顔してましたか?」
「しておったのう。お主は意外と顔に出るからな」
マジかー。あちこちでそれ言われるからよっぽどなんだろう。隠れショタコン故に表情筋は鍛えられているはずなのに。
「お昼だー!」
疲れが取れてきたら空腹を感じたらしいリオが身を起こして伸びをした。うーんはちゃめちゃに可愛いな。
かく言う私もお腹がすいていることに気付いた。起き上がってミスト傘とおさらばする。
お昼は母さん手作りのチキンサンド。夏場の修行は大変なのでエネルギーを、ということで大変ボリューミーな逸品だ。
私たちは美味しいランチを思ってらんらんしながら家に入っていった。
―――――………
アイリーンが年頃の乙女とは思えないくらい口を開けてチキンサンドを食っている頃、ジゼット村から南へ下った場所――王都ゴーデミルスの王宮では、王太子レオンハルトが早めの昼食を済ませて自室で書類を睨んでいた。
(邪神信徒どもの動きを追うのは難しいものだ。こそこそと影の様に動いて……おおよその数すら掴むことができない)
国内をうろつく邪神信徒について、隠れ家等を調べさせたものであった。
彼らは国家転覆を目論んでいるわけではなく、ただひたすらに闇を蓄えて邪神を復活させることに注力する。
それゆえ滅多に派手な動きを見せることがなく、動いたとしても信徒同士で団結することはないので、闇を抱く原因となった相手を襲うとか、生活に困窮して盗みを働くだとかその程度。大抵が一人の捕縛にしか繋がらないのであった。
(アイリーンのために、せめて学園内の者だけでも……)
創立祭の夜に彼女を拐った者はまだ見つかっていない。そして、闇に心を食われた土寮の一年生も。
学園に忍び込んだ邪神信徒はアイリーンが誘拐された時に見たという男であろう。
(そいつは、いったいどうやってアイリーンの……『精霊の愛し子』の入学を知ったんだ?)
それに、彼女がそうであるとどうやって知ったのか。レオンハルトは書類を睨んだまま考え込む。
確かに彼女は非常に優秀で、一年生としては規格外とも言える目立つ生徒だ。しかし学園内では水属性魔法しか使わず、発動の際にも、入学式の日に一度学園長の目を誤魔化そうとした時の様に魔力を体内で練り上げる時から水属性に染めている。
(そういえば……アーノルドが、創立祭の夜のアイリーンは酔っていた、と言っていたな……)
捕まえていたアーノルドとメルキオールの腕をするりと抜けて風の魔法で逃げたと聞いている。その時のことからバレたのだろうか。
(いや、だが、目星をつけていなければ素早く拐うのは難しいはずだ……)
レオンハルトはついに書類を放り出して腕を組んだ。頭をひねって考える。
その頃アイリーンは何も知らずに、頬に付いたソースをリオの細い指で拭われて昇天していたが、レオンハルトは必死に彼女のことを考えていたのである。
彼女が「とおとい……」と穏やかに合掌しているのを知ったらレオンハルトも少しは心穏やかになっただろうか。
(やはり、邪神信徒はアイリーンが『精霊の愛し子』であることを知っていたということか……)
そう言えば。
彼はぶっちゃけ婚約者を憎からず思っているのだが、未だに自分は鮮烈な初恋の人であったアイリーンのことを好きなのだと思っているのである。
勿論きちんと好きなのであろう。しかし彼はすでに王太子として線引きをできるようになっているはずだ。
それなのにこうして彼女を想うのは、彼女の人柄と、自分の中の不器用な思いゆえなのであろう。
自分の心に折り合いをつけられずにいるところへ、幼少期から抱いてきた立場ゆえの不自由さへの小さな反抗。この際スッパリ振られれば楽だと分かっていながら踏み出せない臆病な王太子ハートである。
それが恋ではなくとも、ジェラルディーンを大切に思う心をさっさと認識すれば良いものを。
まあつまり、彼は少々残念であった。
そんな残念王太子の部屋の窓を、誰かがコンコンとノックした。ここは王宮の三階である。レオンハルトはガバッと立ち上がって静かに魔力を構えた。
叩かれた窓の外に不審者の姿はない。もしや風が何か運んできてぶつけたか、と思って少し肩の力を抜く。
その背後にゆっくりと忍び寄る影がいるとも知らずに。




