第40話.ショタコンの縄脱け
サラサッタが持った石片を顔に近づけてきた。流石に顔を切られるのは恐ろしすぎたので私は身をよじって避けようとする。
「避けるんじゃないわよ!」
「いやっ、避けるでしょ?!」
怒鳴るサラサッタにガシッと顎を掴まれて固定されながら、私はもぞもぞしてなんとか逃げようとした。
しかし、ついに石片の鋭利な先端が頬に触れる。まずい、これはまずい。
サラサッタがビックリするほど邪悪な笑みを浮かべている。桃色の目は黒く濁ってい間近で見てしまった私は途轍もないレベルでゾッとした。
その時、扉がガチャリと開けられた。サラサッタがピクリと動きを止める。止まるなら少し離れてほしい。
「……血を流させるな。それの血もまた心臓と同じく貴重だ。最後の一滴まで我らの神に捧げるのだからな」
「……はい」
現れたのは黒衣に黒マントの男。底冷えするような闇の気配……多分これが学園に侵入した邪神ファンだろう。ノワールの感覚すら「近づくと途端に霞む」といったふうに惑わせるというヤバい奴。
マントの下に目元を隠す黒い仮面まで着けているから顔は分からない。怪しさマックスの格好だ。
私は何とか正体を暴こうと目をかっ開いて男を見つめたが、残念なことに男はすぐに部屋を出ていってしまった。
本当にサラサッタに注意するためだけに来たらしい。驚きだ。いたぶりの見物とかしそうな感じのザ・悪役なのに。
まあ男のお陰で切り傷は回避できそうだけれども、その代わり打撲……最悪骨折は覚悟しなきゃ駄目かも。早く脱出しなきゃ。
私はそう考えて、両腕に更に魔力を集めていく。縛ることが可能な魔力の限界が近づいてきて、魔力縛りの縄が微かにプチッとか言っているので、もう少しで切れそうだ。
「……つまんないの」
文句を呟いてサラサッタが石片を投げ捨てる。投げられた石片はスンッと簡単に床板に刺さった。
スンッと簡単に床に刺さった???
おかしいでしょ、鋭さがエグい。本当に切り傷を回避できて良かった……
「どうしようかしら?」
できることなら何もしないで。するとしても、見るのがすごく苦痛なレベルで下手くそなダンスをこの場で披露するとかそのくらいにして。
あっ、手を振り上げている。切実に、普通の感覚として、そんな簡単にスナック摘まむみたいにぶたないでほしい。
いいか、慣れているように思われていると思うけど、その実私は暴力に慣れていないんだぞ。
「っふ!」
後ろがフリースペースだったので、全力で後方に背中を反らせる。サラサッタの手が胸の上を通過していった。
これによってどうやら、と言うか避けたんだから当たり前だけれどサラサッタはキレる。
「避けるんじゃないわよっ!!」
振り上げられる細い足。ふわりと溢れそうなフリルの合間に見える白い脛が綺麗である。女の子なんだからそんなに足を上げるんじゃない。
可愛らしいリボンが付いた赤い靴の踵が全く可愛らしくない勢いで、私の斜め座りの腿へ振り下ろされる。
「ぅおっ!」
横へごろごろ、全力で転がって逃げてみた。ガツンッとヒールが床を激しく叩く音が響く。おお怖い。
避ける度にサラサッタの表情がどんどん厳しくなっていく。これでスンッて無表情になられたりしたらマジで怖かったから、キレてくれて少し良かっ――――
「なによっ!!」
「ぬわっ!!」
いや、普通に考えて良くねぇ! 誘拐されて、両腕と魔力が不自由な状態で踏まれそう蹴られそう殴られそうなんて、全然良くねぇ!!
サラサッタが追いかけてくる。私は全力でごろごろして距離をとり、ふんっと全身の筋肉を使って立ち上がった。
邪神ファン本体(男)が同じ場所にいるから、そっちも警戒しつつ戦わなきゃいけない。取り敢えずドアに背を向けないようにしよう。
一人そう確認して、私は両腕に全力を込めた。プチッ、ブチブチッと魔力縛りの縄が悲鳴を上げてちぎれていく。
私の魔力の量に耐えきれず、縄は最後にパァンッと大きな音と共に弾けてパラリと床に落ちた。
その様子を見て固まったサラサッタは青い顔で震えながら口許を押さえた。
「な、なんなの。有り得ない、ば、化け物だわっ!!」
「うーん、それよかゴリラかな」
私はそう言い返して、五歩分の距離を一息で詰めた。サラサッタが「ひっ!」と引き攣った悲鳴を上げて後ずさる。
だって客観的に見て、両腕に力込めて縄を弾き飛ばすなんてゴリラの所業だよね?
修行時代から自分の中にゴリラの片鱗を見て、しかし気づかないように必死に見て見ぬふりをしてきたんだけど、そろそろ認めるね?
私ゴリラかもしれない! ということを認める。ゴリラだ、とは認めないぞ。そこはね、たとえショタコンと言えど私一応女の子ですし。
一気に距離を詰め、自由になった両手から魔力を放つ。鮮やかな銀光が薄暗い部屋を目映く照らした。
私の両の掌から真っ直ぐに青い水の帯が伸びる。サラサッタを捕まえようと、ひゅるりと素早く動く水の帯に彼女の顔色は最悪になっていた。
「けっ、鍵言も無しだって言うのっ?! 有り得ない、有り得ないわっ!!」
サラサッタは、後退りに失敗してよろけながら「『土壁』!」と防御の魔法の鍵言を叫ぶ。
即座に、闇の力で補強された土の壁が展開されるのは、流石邪神に魂を売っただけあった。水の帯がぶつかってジュワァッと蒸発する。どんな土なんだ。
「残念、無駄だ!」
にやりと笑って両目に力を込める。暖かな魔力が満ちる感覚、魔眼が発動した。宙を駆ける不可視の魔力が『土壁』を乱暴に食い散らかして一瞬で消し去る。
「っそ、そんな……ひっ、いやぁっ、来ないで!!」
「お断りーっ!!」
どんな性悪だろうと生粋のお嬢様だもんね。実戦になれば怖くて腰を抜かすのは当たり前。
顔面蒼白でヒロイン的に叫ぶ彼女に向けて、今度こそきっちり捕まえようと水の帯を放つ。おっしゃあ待ってろ、パーティー会場のデリシャスたち。すぐ帰るからな!
サラサッタの身体にぐるぐると巻き付く水の帯。浮いている片端を魔力を灯した手で握り、ぎゅっと締め上げる。
「うっ」
よし、制圧完了。
この騒ぎで、あの怪しい男は私の縄脱けに気付いたろう。すぐに来そうだから早く逃げないと。
呻いて項垂れたサラサッタを放置して部屋を見渡し、私は小さな窓に目を付けた。
あれくらいなら出られるかな。ここが何階だろうと、風の魔法なり何なりで無事に着地できるはずだし。
「よし、じゃあな!」
私はそう言って窓を開け放った。身を乗り出して下を見下ろす。なんだ、せいぜい二階程度の高さじゃあないか。これなら余裕余裕。
安心して出られるぞ、と私はドレスのスカートをまことにはしたないことながら盛大にたくし上げ、右足を窓枠にかけた。
「何をしている」
「っ、ぅあっ?!」
いざ、飛び降りようとした私の首に、酷く冷たいものが巻き付いて、私を思いきり後ろに引っ張った。喉が絞められ、私は呻きながら引きずられて床に転がる。
「っ、げほっ、ごほっ」
「まったく、どうしてもと言うから時間をくれてやったのだが……まさか、逃げられそうになるとはな」
まずい、これはまずい。
私は仰向けに床に転がったまま、喉の痛みと背中の痛みに呻きつつ、必死に頭を回転させていた。
すぐ近くに、邪神ファン本体の男が立っている。溜め息混じりの闇に濁ったその声は、何故だか聞いたことがある声の様な気がした。
「立て、サラサッタ」
「う、はい、申し訳、ありません……」
冷たく言われて、水の帯に縛られたままのサラサッタがよろよろと立ち上がる。男は私の横に立ったままそれをじっと静かに見ていた。
私はその場を少しでも離れようと身をよじり、仰向けからうつ伏せになる。当たり前だがその動きを男に気づかれて「許可なく動くな」と理不尽なことを言われ、背中に足を乗せられた。
「っ……」
くそ野郎。マダム・ベルタン謹製のドレスが駄目になっちゃうじゃんか。まだ今日しか着ていないし、かなり気に入っているんだぞ。お前のお気に入りの靴下に穴が開く呪いをかけてやる。
「思い出せ、身の内に渦巻く憎悪を」
「憎悪……あたしは、憎い……その女が、メルキオールを奪おうとしているの……あたしの、あたしのものなのに!!」
「そうだ。さあ、お前はどうする?」
「苦しめてやる……痛めつけてやるわ……彼に近づいたことを、後悔するように……死んでも残る傷を与える!!」
サラサッタは大きな声で宣言するように叫んだ。直後、彼女の中の闇が爆発する様に膨れ上がり、荒れた風を巻き起こした。
溢れ出す黒の帯が目に見えるほどの、深く濃い憎しみの色。私の水の帯はどす黒く染められて、最期の銀の粒を溢しながら消えた。
ゆらり、とサラサッタがこちらに向けて一歩を踏み出す。視界を覆い尽くす黒。それは次第に私の中へ踏み込んでこようとする。
「っ、やめて、入ってこないで!!」
頭が割れそうだ。反響するサラサッタの声が、墓の底から這い上がってくる亡者の声の様な邪神の力が、私の心臓を求めて入り込んでくる。
「あっ、ぐ、いや、だ……」
「潰してしまえ、サラサッタ」
「っ、うぁぁっ!!」
脳を内側から掻きむしられるみたいな不快感。温かく脈打つ心臓へ、黒い手が伸びてくる感覚、途轍もない恐怖が私を襲う。
そして、何も、見えなくなった。




