第38話.ショタコンの受難(プレミアム)
宴の喧騒から遠く離れ、学園に薄く渦を巻く紛い物の闇に顔を顰めながら、月光に冴え渡る影の中を進むノワール。
(ふぅん……それなりに育っているな)
彼の愛し子である(と思っているのは彼だけであり、言えば彼女は間違いなく文句を言うだろう)アイリーンの命を狙う愚か者たちの気配。
育ちきったところをペロリと呑んで、邪神へと力が流れることを防ぐのも闇の精霊である彼の仕事である。
人間の根源が蓄えられるだけの闇の力を蓄えさせ、弾ける限界に呑まなければ邪神の力の種を奪うことはできない。種を奪わなければ闇はまた育つ。
だから彼はアイリーンに危険が及んでもよっぽどのことにならなければ手を出さないのだ。
(それにしても、やはり俺の愛し子は美しいな)
赤く染まった雪白の肌に映える淡いコバルト・バイオレットのドレス。淑女らしい慎ましやかな意匠の中に隠れた、夜気に香る花の様な色香が堪らなく美しかった。
ふにゃふにゃと笑って無防備に身を寄せてきた彼女は、いつもの素っ気ない様子とは打って変わって懐っこく、常との差でノワールの心は高揚感で満たされた。
柔らかな銀糸の髪、自分のものと良く似た琥珀の瞳が愛おしくてたまらない。アイリーンは、ノワールが今まで見てきた『精霊の愛し子』の中でも最も美しいと言っても過言ではない美貌の持ち主だった。
(あの姿を至らない人間たちに見せてやるのは癪だったが、致し方ない。俺は俺にしかできない方法でアイリーンを守る)
そう考えてノワールはちらりと影の中から暗い学園内をふらふらと歩く者を見た。
何をするつもりなのか、何を考えているのか、まあ邪神の信徒のやることなど彼にとっては些細なことである。どんなに足掻いても邪神から得た闇など、ノワールの力に比べれば所詮紛い物の弱い力だ。吹けば飛ぶ、その程度のもの。
(精々愉しく踊れよ。俺の手の上でな)
やり過ぎれば呑むだけ。影はどこにでもある。ノワールはフン、と笑って人影を眺めていた。
―――――………
へにゃへにゃと誰もいない方向へ締まらない笑みを向けている酔っぱらい――アイリーンを見ながら、墨色を基調に鮮やかな金糸雀色と苗色を合わせた正装を纏ったメルキオールは深い溜め息を吐いた。
その様子は、奇しくも先程までのノワールと同じなのだが、それを彼が知る由もなかった。
さて、彼女の様子は最悪であるが、その姿はいつも以上に美しく、こんな酔っぱらいに心を乱されるのが気に入らないメルキオールは努めて彼女を見ないようにそっぽを向く。
いつもなら玲瓏たる月の様に白い花顔は赤く染まり、ほんのり潤んだ琥珀の目の眦もうっすらと紅を引いた様で、喩えようのない色香を醸していた。
(こんなきっちり、してくるとは思わなかった……き、綺麗だなんて、わざわざ言ってやらないんだからな……)
そんなことを考えていたメルキオールの肩へ、突如としてコテンと頭を傾けたアイリーン。ふわりと甘い香りが漂い、二重の意味でドキッと心臓が跳ねる。
「んふふ、ちょうどいいたかさ……」
「…………」
メルキオールは眉をひそめた。猛烈に嬉しくない。
「アイリーン嬢、君はもしかして眠いのかな?」
アイリーンを挟んだ向こう側でアーノルドがそう訊いた。彼の正装は兄と同じく鮮やかな緑色。金の装飾が見事だ。
そんな彼に訊かれたアイリーンは何やらモニョモニョと言っている。
「うぅん、ねむくない」
「目が閉じてしまっているよ。ここでは冷えるから、寮へ戻るかい?」
「もろらない! このあと、ごはん、たべるんらもん!」
「うーん、でもなぁ」
酔っているからか、普段の猫被りな敬語が取れていた。アーノルドの苦笑が聞こえてくる。
「なんれかえそうとするんら……やっぱりだめら……いこう」
「ちょっ、待ちなよ。どこに行くのさ」
「めるきおーるには、かんけいない、れしょっ!」
ふらりと一歩踏み出したアイリーンの腕を捕らえると、ガバッと振り返った彼女に半眼で文句を言われた。とろりと酔いに潤んだ目で睨まれても怖くない。
「そんな君を一人で行かせるわけにはいかないよ。もう少し、酔いが覚めるまで私たちの隣にいてくれないかな?」
「いやらね」
「困ったなぁ……」
「あーのるどがこまっても、わたしはなにもこまらないのら」
ふふんと胸を張った彼女がさらりとアーノルドを呼び捨てにしたので、メルキオールはぎょっとした。アーノルドが気にした様子はなく、彼の口許は穏やかな弧を描いている。
「とにかくここにいてよ、アイリーン」
「……いやらね」
直後、ふわりとそよ風の如く揺らめいた魔力には何の属性も感じられなかった。それ即ち、それがアイリーンの魔力ということで、メルキオールとアーノルドは慌てる。
「「待って!」」
「ふふんっ!」
ぴったり揃った二人の声に、アイリーンは鼻で笑って途端に風を纏った。銀色の魔力が鮮やかな緑色に染め上げられて、似た色を持つアーノルドが思わず見惚れて舞い上がった魔力の粒子を見上げる。
「えいっ」
ぶわっ、と吹き荒れる風。涼やかな夏の気配を乗せて、二人が思わず目を閉じるほどの風が周囲の音を拐った。
爽やかな風が去って、二人が慌てて目を開けるとすでにそこにアイリーンの姿はなかった。
「っあの、~~っ!」
馬鹿、と言いたくて端麗な顔を思いっきり顰めるメルキオール。困ったな、と金の髪を柔く掻き混ぜるアーノルド。
二人は大きく息を吐いて顔を見合わせた。
「……探しに行こうか」
「……はい」
どうせパーティーに興味はない。第二王子であるアーノルドがそれでは、とも思うが本当に大忙しなのは兄のレオンハルトだけ。会場に戻ればまた人に囲まれるのは必定。二人とも、面倒は嫌いだった。
―――――………
ふふんだ、ふん。
私のご飯の楽しみをメルキオールとアーノルドが奪おうと画策しているようだったから逃げてきた。誰にもご飯は邪魔させないぜ。
さて、すぐに戻っても出入口で彼等が待ち構えているだろうから周囲の散策でもしようかな。
身体がふわふわとして楽しい。薄暗くて月光に蒼く浮き上がる学園は、昼間とは違った姿で見ていて楽しい。
んー……? 何だろうあれ。ピンク色でふわふわしているものが見える。
図書館の方でピンク色の何かが揺れたのでそちらへ足を運ぶ。正規の散歩廊下を歩かずに踏み固められた土の地面を歩いた。
「ん~、っぅお?!」
直後、何かに躓いた。
危ない、と何とか踏みとどまる。ドレスが汚れたら悲しい。
少し下がってドレスのスカートを摘まんで地面を見下ろす。そこには不自然なでこぼこがあった。
「いじわるかなぁ」
何にせよ、転ばなくて良かった。
「……あれ? ピンク色は?」
顔を上げたらさっきまで建物の陰に隠れるように見えていたピンク色が姿を消していた。
「見間違いか――――
ガツンッ!!
直後、私は背後から思いきり後頭部を殴られて意識を失った。
ぐったりと倒れたアイリーンを支えたのは、黒いマントで頭から足元まですっぽり覆った男だった。
彼はアイリーンの頭へ訓練用の木剣を振り下ろした少女――酷く暗い目をしたサラサッタを振り返る。
「もう少し加減できなかったのか」
「一撃で気絶してもらわなきゃいけないんだもの……」
男はアイリーンの後頭部を確認して、吐き捨てる様な溜め息を溢すと懐から取り出した緑の小瓶の中身を傷へかけた。淡い緑色の光に包まれて緩やかに傷が塞がっていく。外傷への治癒用魔法薬だ。
「行くぞ」
「ええ」
ふらりと歩き出すサラサッタの桃色の目に意思の光は薄い。あるのはギラギラと燃える憎悪の色と濃密な闇の気配だけ。彼女は気を失ったアイリーンの顔を一瞥して歪んだ笑みを浮かべた。
「ふ、ふふふ……たくさん痛め付けてから殺してやるわ……ふ、ふふふふ」
マントの男はアイリーンを軽々と横抱きにして歩き出した。男の足下から歪んだ影が溢れ、二人はそこに沈むようにして学園から姿を消した。




