第36話.ショタコンの受難(3)
うまーっ。私は自分では見えないが恐らく満面の笑みで会場を歩き回っていた。何もかもが美味しくて幸せである。
マッシュポテトもいつもより上品な味わいだったし、デザート類は宝石箱の中身みたい。ダンスが始まってもパートナーがいない私はフリーダムだから満喫できる。
端的に言って最高だ。
私はふわふわしていた。
このふわふわがまさかこんな事態を招くことになるなんて。私は内心頭を抱えながら目の前の人の顔を見上げた。
「不安そうな顔をしないで、私に任せてください。リードしますから」
不安ちゃうわっ!!
私の現在地は大広間中央、女性陣のドレスの裾が花弁の如くふわりと広がるダンスフロアの真ん中。
目の前には水宝玉の瞳を楽しげに細める、我らが水寮長ギルバートがおり、私の腰には彼の手が添えられ、完璧に踊る姿勢となっていた。深い青色の正装を纏った彼はとてもご機嫌だ。
どうしてこうなった……!!
魚介のパスタがすごく美味しくてもりもり頬張っていたら、後ろから「ご機嫌ですね、美味しいですか? そして良ければ私と一曲踊っていただけませんか?」と声をかけられたのである。
私は魚介のパスタの美味しさをキメていたので判断力が欠如しており、ついうっかりパスタの美味しさについて答えるつもりで「はい!!」と返事をしてしまった。
つまり、してやられたわけである。
ダンス自体はラタフィアに扱かれていたから問題ない――まさか彼女はこの状況を想定して……?――のだけれど、状況が何も良くない。
彼は侯爵家の嫡男、次期当主である。つまりは狙っているご令嬢方がめちゃめちゃいるってこと。顔も良い、成績も良い、家柄も良い、となったらそりゃあ皆メロメロだろう。
現に私は睨まれまくっている。沢山踊っている人がいるのに、その人波の合間を縫って刺す様な視線が飛んでくるのだ。ご令嬢方、器用か。すごく怖い。
優美なワルツのステップはそこそこ単純である。音楽に乗って彼に大人しくリードされていれば足を踏むようなこともない。
ただ、あちこちが触れ合う距離とか、名残惜しい魚介のパスタの余韻とか、ギルバートの足を踏んだら周囲のご令嬢方にしょっぴかれて終わりだってこととか、とにかく問題が多すぎるのである。
あっ、ラタフィアだ。深い青色のドレスを纏った彼女は、流石侯爵令嬢らしい見事な足さばきで踊っていた。パートナーのカイルも楽しそうで、何やら小声で言葉を交わしながらのダンス。器用の塊である。
それにしても、ラタフィアのドレスは素晴らしい出来だよなぁ。柔らかな生地を重ねたティアードスカート。その女性的なラインがとても彼女に似合っている。
そんな風に眺めていたらパチッと目が合った。私のダンスの相手を見て、ふうわりと微笑む。綺麗に笑っていないで助けて、貴方のお兄ちゃんですよ。
「お上手ですね、アイリーン」
「っ、寮長のお陰です」
私が視線をそらしたからか、いきなりギルバートに声を掛けられる。咄嗟にそう答えると彼は思案する様に目を細めた。何やら嫌な予感がする。こういうときの嫌な予感と言うものはよく当たるのだ。
ギルバートが少し上体を傾けながら私の腰を引き寄せたので、私たちの距離はほぼゼロになる。ぴったりと密着した身体、耳元に触れる彼の吐息。
おうっ、ご令嬢方の視線が針から剣になる。あっ、ちょい待ち、私のささやかな胸が柔く潰れている! ハッ、まさかそれが狙いなのかっ?! くそう、貴様も所詮男かギルバートッ!!
かなり失礼なことを考えて現実逃避をしているのはギルバートが何かを言おうとしているのが丸分かりだったからだ。
待て待て待て何も言うな。頼むからお口チャックで一曲を終えてくれ。神様、ヘルプ!
しかし神もギルバートも無情であった。
「何度も言いましたが、ギルバートと、呼んではくれないのですか」
はいっ、呼びません!
「アイリーン……私は、貴方が……」
うるせぇ、シャラップ、サイレンス!
ほぼ抱き締められる様な体勢で、それでも音楽に合わせて足だけは上手く動いている。耳朶を掠めてくすぐる吐息が熱く、かすれた彼の声は糖蜜を含んだ様に甘い。躊躇いがちな言葉の合間すら、特別な気配がした。
「貴方のことが、――「すまんが代わってくれっ、ギル!!」
「っ!!」
思わぬところからやって来た救世主は、しかし正しく救世主ではなかった。
きっちり整えた燃える様な赤い髪。透き通る透石膏の双眸。鍛え上げられた逞しい身体に臙脂と深緋の正装の似合うこと。
火寮長エドワード。またの名を決闘挑みまくりマンと言う。
ギルバートの腕の中から大変上手に私を抜き出して、さらりと自分の腕に閉じ込める。体温が高いので触れ合うところがぽかぽかだ。
助かったけれどギルバートに悪すぎやしないかこの状況。ダンスフロアの真ん中で一人にしてしまった。うるせぇ、シャラップ、サイレンスとは言ったけれど普通に申し訳ない。
「あの……」
「すまないな、貴方と踊りたかったからついやってしまった!」
「ええと……」
声がでかい!
こういうことが得意そうには見えないけれど、やはり貴族の子息だし、運動神経が良いのでダンスに不慣れな様子はない。リードも上手いので、いきなりのパートナーチェンジでも私がふらつくことはなかった。
「とても綺麗だ!」
「……ありがとうございます」
ギルバートと違って元から距離が近いので――恐らく彼はパーソナルスペースがめちゃくちゃ狭いのだ――彼の楽しそうな笑い声が耳元をくすぐる。
「この一曲だけですよ……」
「ああ、分かっている。ただ、半分しかないのが惜しいな……」
早く終わってくれ、曲よ。さっきちらっと見えたチーズの山が最高に美味しそうだったんだ。行かせてほしい。
「貴方は、こんなにも小さく柔い……」
チーズ……あっ、あれは何かな。もしやゼリー?! 青くて綺麗だ。デザート候補に追加しよう。
「それなのに強い。その不思議な対比が美しいと思う」
んー? 初めて見るやつが運ばれてきたぞ。パンの仲間、かな? 何だろう、あれに似ている……
「アイリーン、俺は貴方に惚れている」
「デニッシュだ」
あっ、声が出ちゃった。それと同時にエドワードが何か言ってたことに気づく。何の流れで「デニッシュだ」と言っちゃったか分からないけれど、エドワードの囁きモードがデニッシュでフィニッシュなのは確実だ。
気まずくて、ちらとエドワードを見上げる。彼は透き通る月光を映した様な透石膏の目を丸くして私を見下ろしていた。
「……すみません」
「……いや、ああ、うん。その、話は聞いていたか?」
「お腹空いちゃって」
正直に答えるとエドワードは呆気にとられたような顔をして、それから「ふっ」と苦笑する。
「貴方には敵わないな」
「すみません……」
器の大きな人だ。私だったら話の途中でいきなり「デニッシュだ」とか言う人、許しがたいはず。これを笑って流せるなんて、ただの決闘挑みまくりマンじゃなかったのだな……
私は変なところに感心しながら、ワルツが終わるのを待った。




