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86 記憶の中のあの人

 羽黒祐介は、工藤旅館の客室で、布団に入っていた。すでに部屋の電灯は消されていて、床の間の近くに置かれたオレンジ色のランプが灯り、かすかに天井を明るくしていた。

 旅館の布団はなんて気持ちが良いものだろう、と祐介は思った。足を滑らせると、シーツがするすると音を立てて、冷たかった。冷房もよく効いていた。風邪を引きそうなくらいである。ちなみに設定温度を下げたのは根来である。


 根来は先ほど、部屋に戻ってくるなり、胡麻博士に出会った、などと騒いでいた。祐介はそれを聞いて、こんな偶然もあるものかな、と思い、挨拶に行こうとしたら、胡麻博士はすぐにどこかに出かけていってしまったよ、と根来に言われた。それなら、明日、あらためて挨拶をすればいいか、と祐介は思った。それから根来は程なくして眠りについてしまった。


(これからどうなるのだろう……)

 祐介は、こうして天井を眺めていると、すみれのことが脳裏に浮かんでは消えた。すみれとの仲をどうしていけばいいか、祐介は答えが出せずにいた。

 すみれのことを考えると悲しくなるのである。その悲しみの正体は分からなかった。

 すみれと別れたあの池袋駅の改札口から、約束が続いている気がする。その約束は、自分たちには二人だけの将来があるという空気のようなものだった。しかし、祐介はまだすみれとの関係に悩んでいる。


(あの人と結びつけてしまっているのかもしれない……)

 祐介は、かつて好きだった人がいた。その人は、白石詩織といって、祐介と胡麻博士が鎌倉を旅していた時、鶴岡八幡宮の石段を降りてきて出会った女性だった。祐介は、彼女に一目惚れをした。その影のある瞳に惹きつけられたのだ。白石詩織は、群馬で起こった殺人事件の関係者で、祐介はその事件を調査している探偵だった。彼女はある時、祐介に苦しい胸のうちを明かした。しかし、祐介は力になることができなかった。そして、彼女は恋人と心中を遂げてしまったのだ。(「名探偵 羽黒祐介の推理」参照)


 祐介は今でも、その悲しみを抱えたまま、自分が吹っ切れずにいることに気付いていた。白石詩織を忘れられず、その儚い姿を、すみれに重ねてしまっているのかもしれないと思った。恋愛に前向きになれないのも、自分の中で、また同じような悲しい思いをするのではないか、という不安があるからだと思う。


(白石詩織か……)

 祐介は、じんと涙がこみ上げてくるようだった。いくら時間が経っても、好きな人は好きな人のままなのだ。

 胡麻博士は「それでも、人は前に歩み続けなければならないのです」と祐介に告げた。祐介もそれは感じていた。ずっと心の中の白石詩織を昇華できずにいるのは自分自身なのだ、と思った。

 人を好きになるのはつらいことだ、と祐介は思ったが、再び、人を愛せる自分になりたい、とも思っていた。そして、すみれの存在が、白石詩織よりも大きなものになってきて、記憶の片隅で生き続けている、白石詩織を忘れてしまうことに、祐介は悩まされているのだ。


 静かに夜がふけてゆく中で、祐介は、ランプの灯りに照らされた天井をぼんやりと眺めながら、そんなことを思っていた。

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