85 胡麻博士と浴衣の少女
胡麻博士は、草むらを抜けて、川辺に出た。あたりはしんと静まり返っていて、耳をそばだてると、虫の鳴き声と、川のせせらぎが合唱のように聞こえてくる。
胡麻博士は、川沿いの歩道の上で、あたりを眺めた。黒くなった川が、右手に流れてゆく。胡麻博士は、川に沿って並ぶ、街灯と提灯を頼りに歩いた。しばらく歩くと、ふたつの川が合流するところがあり、その右側の土手の上に、小さな社が建っていた。そして、その前には浴衣姿の女性の人影があったのである。
(あれが……ということはここが……)
今や、胡麻博士は横から風に吹かれ、浴衣をはためかせている妖怪博士である。その博士が、小さな社を前にして、全身を強張らせて、立ち尽くしている。感動しているのである。
(いいぞ。ここがかつて魂が集まると言われていた場所なのだ……)
胡麻博士は、その小さな社の前に立っている女性が早く立ち去ればいいのにな、と思った。さすがの胡麻博士でも、参拝している信者に割って入って、民俗学の調査を始めるような無粋さは持ち合わせていない。
その女性は、あたりが暗いせいで、よく見えないが、二十歳そこそこだろう。旅行で訪れている学生だろうか、と思わせる。それにしても、この年頃の観光客にしては珍しく、たった一人で、こんな川沿いを散策しているのだろうか。
(信心深いのか……)
胡麻博士は、信心深さは、霊感の強さが前提にあると思っている。仏像やいわれのある品々を前にしたとしても、霊感が強いと弱いとでは、感じ方が異なる。そうした、霊的な感覚の体験の蓄積が、ある時、神や霊に対する信心と結びついて花開くのだろう、と思っている。
(きっと、あの子も、霊感が強いのだ。もしかしたら、わたしには見えないものが見えているのかもしれない……)
胡麻博士は、そう考えると喜びのあまり、全身が震えてきた。是非、少女に話しかけてみたいと思った。胡麻博士は、体を震わせながら、その浴衣姿の少女の背後に迫っていった。
「もし、そこのお若い方……」
「はい……」
街灯のシルエットとなった少女が振り返りつつ、答える。
「川の流れなんぞ見ているが、何が見えておるのかね」
「あ、いえ……」
あからさまに狼狽した様子であったが、少女はちょっと口籠った後、
「なんだか、懐かしいんです……」
と言った。
「懐かしい……。あなたはその格好からすると、地元の方ではないと思うのだが、ここに以前、来たことがあるのかね」
「ええ。お祭りの時には、ここにもっと提灯がかかって、出店なども並んだものですよ」
「ふうん……」
「懐かしいです……」
胡麻博士は少女の暗い声の調子に、何かを感じ取った。
「なにか、戸惑っていることでもあるのかね」
「えっ」
「そなたの声には、戸惑いの心がある」
「どうして、それを……!」
少女ははっとして、胡麻博士の顔を見た。胡麻博士はその少女の顔を見て、あれっ、と思った。しかし、少女はそれに気づかずに震えた声で話し始めた。
「確かに、わたしは戸惑っています。でも、こんなことは誰にも相談できません。ただ、どうしたらいいか、分からないんです。もし、わたしが姿を現したら、どんなことが起こるか……」
ところが、胡麻博士は、場違いなほど明るい声を出した。
「なんだ、あなたは羽黒さんの妹さんじゃないか! わたしの顔をお忘れかな」
「えっ」
「胡麻ですよ。いつも羽黒さんにはお世話になっています」
「そんな、人違いです……」
胡麻博士は、未空だと思って、すっかり嬉しくなってしまった。
「人違い? そんなことはありますまい。あなたの顔は、まさに未空さんに生き写しだ……」
「違います。わたしは……」
少女は震えた声で、そう言いかけて、また躊躇した。そして、暗い面持ちで川の流れを見下ろした。
「ほう、羽黒さんでないとすると、あなたはどなたなのですかな?」
すると少女は、たまらなくなったように、
「やめて!」
と叫んで、胡麻博士を土手の上で思いきり突き飛ばすと、自分は兎のように、土手から歩道に飛び降り、そのまま街灯のない道へと駆けていった。少女はたちまち、夜の闇の中に消えてしまった。




