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84 胡麻博士と物の怪

 胡麻博士は暑苦しさに参っていた。歩き始めて数分もしないうちに、肌がべたべたしてきて、油がまとわりついているようである。

 墨を塗ったような夜空の下、古めかしい旅館や飲食店の瓦葺きが並んでいる、左に曲がった下り坂、ぼんやりとした橙色の灯りがいくつも下がっている。今にも妖怪が出そうな雰囲気。行き違う人たちは、浴衣姿の胡麻博士を少し恐ろしげに見て、一歩、離れた。

 射的だの、ダーツだの、のぼりがはためく、観光客相手のゲームセンターが馬鹿に明るくて、胡麻博士は少し、夢から覚めたような気持ちになった。下り坂を降りて、温泉街の賑わいから離れると、提灯やら街灯やらも少なくなって、人家の窓の灯りを頼りに歩いた。このあたりは温泉街の裏側、川のせせらぎが聞こえてきて、胡麻博士は道の真ん中で立ち止まった。


「音が……聞こえる……」

 こちらの方向で間違いなかったのだ、と胡麻博士は誰もいないその場所で微笑んだ。

「ははは……、地図がなくても、分かるわい。川は上から下に流れる。そして、海へと向かう」

 胡麻博士はしかし、はっとして振り向いた。

「誰だっ!」

 そこに立っていたのは、六十代ほどの女性だった。Tシャツにパンツにサンダルという格好からすると、地元の方である。胡麻博士は、恐ろしげに見つめている。それがマネキンのように立っていたのである。


「あ、いえ、その……」

「さては物の怪の類かっ!」

「い、いえ、決してそんな……」

「喝っ!」

 胡麻博士はそう言いながら、その女性に迫ってゆく。女性は恐ろしげな顔を歪ませて、逃げ惑う。胡麻博士は念仏を唱えながら、草むらに入ってゆき、太い銀杏の木に追い詰めると、その女性は全力で弁解した。


「すいません。すいません。悪意はなかったんです。あの、夜道で独り言など仰って、どうされたのかな、と思いまして……」

「独り言……。それは私が独り言を喋っていたということか」

「そうです。あの、こんなことを言うのも失礼とは思いますが、少し怪しかったもので……」

「ふはは……」

「えっ」

「これは失礼した。そういうことですか。いや、てっきり私はあなたを物の怪と思ってしまった。夜中に人と出会うと、よく勘違いしてしまうんです。ご心配なさらず。私は怪しいものではない。東京の天正院大学という大学で、民俗学を研究している者です……」

「はあ、大学の先生……」


「ところで、この近くの川沿いに小さな社があると聞いたのですが、ご存知ですかな?」

「はあ、それは、この草地を突っ切った先に、川が流れているので、そこに神様が祀られていると思いますが……」

「ここを抜ければ、すぐですな?」

「え、ええ……」

「ふはは!」

「………」

「やはり、わたしの勘が当たっていた。魂の集うところに自然と導かれているのだ。わたしの霊感もまだまだ捨てたもんじゃないわい!」

 そして、地元の住人である女性に丁寧に礼を言うと、胡麻博士は草むらを走り出した。浴衣がはたはたとひらめき、吹き付けてくる風が心地よかった。もうそこは暗闇の中だった。胡麻博士は、先ほどの女性は本当に物の怪だったのかもしれない、と思った。それでも構わなかった。自分は今、あの世のこの世の入り混じった世界を駆けているのかもしれない。それが何よりも嬉しかったのだから……。

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