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82 萩焼のお猪口と薩摩芋

「しかし、なんですな。根来さんもいい趣味をしておられる。わざわざこの工藤旅館をお選びになるとは……」

 と胡麻博士は嬉しそうに言う。

「はあ。別に私が好きで選んだのではなく、中川旅館が殺人現場になってしまったから、仕方なしに移動してきただけなのですが……」

 と根来は言った。


「それは一つの因縁の作用ですな。確かにあなたは、好き好んでこの旅館に訪れたわけではないかもしれない。しかし、あなたは強力な業によって、はじめからこの旅館と強く結びつけられていたのです」

「はあ。そういうものですか」

「そういうものですよ。御覧の通り、この旅館には無数の骨董品が所狭しと飾られている。その中には、なかなかの名品がいくつも混じっているのです。それはここの主人が骨董マニアだからです。そして、あなたはそれらの魂に呼び寄せられたのかもしれない。ところで、根来さんも骨董品にご興味が……?」

「いや、まったくですな」

 と言う根来は、胡麻博士が何を語っているのか、いまいち分からなかった。


「ご謙遜なさらんでください。焼き物なんてどうですか。この旅館にね、とても味わいの深い萩焼があるのですよ」

「はあ、焼き物ですか。わたしの場合、薩摩芋が好きですな。味わいも深く、食感もぽっくりしていて……」

「薩摩芋とは。またまた、ご冗談を。わっはっは!」

 胡麻博士は愉快そうに笑った。


「えっ、いや、わたし、そんなに面白いことを言いましたか。どうも、ふっふっふ」

 と根来は、焼きものが陶磁器のことだと分かっていないので、胡麻博士の様子に合点がいかない。


「それでね、その萩焼と言うのが、実に可愛らしい、お猪口なんです」

「なるほど。お猪口ね。それでは、そこに日本酒でも一杯に注いで、ぐいっと一息に飲み干したいものですな」

「なるほど。それは実に風流だ。根来さん、あなたは実に粋なお方だ……」

 と何故か、胡麻博士は感心したように呟く。

「いやあ、わたしなんか、所詮、酒の味しかわからん男ですよ」

「いえいえ、ものの味が分かると言うのは素晴らしい。現代人は、あまりにも忙しく日常に追われているせいで、ものの味と言うのがだんだん分からなくなってきてしまった。生活の中にあった粋も、今ではすっかり忘れ去られている。しかし、そういうことってとても大事なことだったのです。ものごとの味わいを知ることは、人生の味わいを知ることでもあります。まことに悲しいものですな」


「なるほど。そういう悲しみを吹っ飛ばすのが酒の味、というわけですか」

「あるいはそうかもしれませんな。南無阿弥陀仏……。末法とは実にこの世のことです。実に、釈迦が入滅してから、二千五百年余りが経とうとしている。その間に、多くのものが生まれ、無残にも滅びてきた。この世に永久と言うものはないのだというが、凡夫には分からない。しかし、すべては泡のように儚く、形もなく、消えてゆく」

「泡と言えば、わたしは泡盛が飲みたいですね」

 と根来は言ったが、さすがに場違いな発言をした気がした。


「さよう。悲しいときは、お酒を飲むべきなのです。少しは荒んだ心を慰めてくれるでしょう。そして、酩酊の夢幻の中で、詩を作るのです。唐代の漢詩人、李白のようにですな。そして、いつか彼のように酒に酔ったまま、水上に映った月をとらえようとして、あの世に旅立ってゆくのです」

「へえ、そんなことがあったのですか。そう考えると、酩酊状態ってのは実に危険なものですね。電車のホームでも、よく転落事故が起きますから、我々もくれぐれも気を付けなければいけませんな」

「ええ。この世とあの世の境界線は、どこにあるのか分かりませんからな。生死は常に表裏一体と言うわけです。根来さんもなかなか、分かる方ですね」

「まあ、それほどのものではありませんが……」

 と根来は、胡麻博士と話しているだけでも、やけに疲れてくるものだな、と思った。

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