6 芸術体験と写真家
すみれと未空は、受付の女性の言動の摩訶不思議さに戸惑いながら、最初の展示室に入った。
入り口にかかっている黒いカーテンをめくると、中は真っ暗闇だった。目が慣れるにつれ、中世の城のような、白っぽい塔のようなオブジェが暗闇にいくつも青白く浮かび上がっているのが見えてきた。それは蜃気楼のようにぼんやりとしていて正体がつかめない。その物体は、遠くにある巨大ななもののようでもあり、実は近くにある小さなもののようでもあった。すみれはその暗闇の中を歩きながら、不思議な音がどこからか聞こえてくるのを感じた。それは何かが捻じ曲がる奇妙な音が増幅されたような、そんなおどろおどろしい音だった。すみれがはっとして頭上を見ると、気球のような変てこなものが無数に浮かんで、ぷわぷわと揺らめいている。それがすみれには水族館のくらげのように感じられた。違和感だらけの恐ろしい空間を一人で、漂流しているような感覚にすみれはとらわれた。その時、ガラガラガラッと音がして、壊れたピアノを叩くような狂気じみた響きがすみれの脳裏に降りかかってきた。途端に、それは意味を何も成していないように消えてしまった。
「なんだろう。この空間、こわいね……」
とすみれが言うと、未空は返事をせずに、何かに憑かれたかのように、ひとりで闇の中へと突き進んでゆく。
「あ、まって。未空ちゃん……」
未空は黒い影となって、青白いオブジェの幻に向かって歩いて行った。すみれは途端に心細くなった。すみれは未空の手を無理に掴むと、出口に向かって急いだ。
「もう、出るよ!」
それから、すみれと未空は、第二展示室に移動した。第二展示室には、先ほどのような薄暗さ、不気味さ、陰鬱さはまったくなく、風景や人物が極めて華やかなタッチで描かれた絵画が壁にずらりと並んでかけられていた。これならば一般的な美術館のようである。キャプションを見ると、十代から二十代の頃の長谷川東亜の作品ということであった。初期はこのような作風だったのかと知ると、あまりにも大きな作風の変化にすみれは驚きを感じる。一体、この二つの作風の間に何が起こったというのだろう。
未空は一枚一枚の絵を非常にじっくりと鑑賞していた。しかし、すみれはあまり絵に関心がなかったので、いくつもの絵の前を通り過ぎて行った。未空ちゃんが亀なら、わたしは兎だろう、いくら早く歩いても疲れてどこかのソファーでお休みして、そのうちにまた未空ちゃんという亀に追い付かれるんだ、とすみれは謎めいたことを思った。
すみれが第二展示室の中をさまよっていると、一枚の絵が気になった。それはこたつの上で一匹の猫が丸まって、その体の上に蜜柑が置かれている油絵であった。すみれは、猫と蜜柑が気になって、その絵をまじまじと見つめていた。
すると、
「この絵がお気に入りですか?」
と突然話しかけられた。すみれが隣を見ると、そこには三十半ばを過ぎたぐらいの、大柄な男性が立っていた。短髪に顎髭が濃いめで、首からはカメラをぶら下げていて、いかにも写真家という外見だ。
「いえ、そういうわけではないんですけど……」
すみれも何と答えてよいか悩む。しばらくして、
「猫が気になりまして……」
「そうですよね。ふふっ、素晴らしい猫でしょう?」
と男性はわざとらしく会話を続けようとする。
「とても太っていて、元気そうな猫ちゃんですね」
とすみれは答えるが、考えれば考えるほどどうでもよい話に思える。
そうしているうちに未空がふらふらと歩いて来た。写真家は未空を一目見て、いかにも可愛らしいものと思ったらしくそわそわしている。モデルを探しているのかもしれない。