65 アザラシのぬいぐるみ
「イメージの中の情緒と、実際の生きた情緒はたしかに異なる。しかし同時に、情緒とはそもそも我々の心の中に生まれるものです。つまり、それはイメージなのです。だから、心象から完全に離れた情緒などというものはありません。我々は自分の中にある心象的な世界を大切にしなくてはならない。しかし、それらは閉じこもった世界ではなく、本来、外界との交渉の中に自然に生まれてくる景色なのです。ある意味では、たとえば、五重塔にしても、そのものを前にした時に、固定観念がガクリと外れて、自然と湧き起こる心象にこそ、情緒を感じなければならないのです。ただ、それができなくなっているのが現代人であります。あなたの心の中に芽生えた感覚を大切にすることです。何にせよ、自分のまわりのあらゆるものをよく見ることです。そして、感じることです。そこにこそ生きた情緒があり、メッセージがあります……」
そう言うと、胡麻博士は娘に買って帰るお土産を見るために、席を立ってしまった。食堂の左端には、土産物の売店があったのだ。そこには、さまざまな魚や、イルカやアザラシといった水族館にいる動物のぬいぐるみが並べられていた。胡麻博士は、鼻歌を歌いながら、それを眺めているようだった。
(胡麻博士の娘さんっていくつなんだろう……)
と英治は、疑問を感じた。
胡麻博士は、アザラシのぬいぐるみを手に取って、くるりとひっくり返した。そして、ふふふっと笑みをこぼすと、そのアザラシの腹を撫でまわした。近くにいた男の子が泣きそうな顔をして、その場から離れた。胡麻博士は、それに気づかず、アザラシの顔を望遠鏡のように片目に近づけては遠ざけた。
(何をしてるんだろうな……)
と英治は可笑しくなる。
胡麻博士は、嬉しそうな顔をして、そのアザラシをレジに持っていった。若い女性の店員は恐ろしいものを見るように胡麻博士を眺めていたが、アザラシを手渡されると、忘れていた挨拶をして、焦った様子で、そのアザラシのバーコードをスキャンして、水色の袋に詰め始めた。胡麻博士は、半笑いを浮かべた顔を固定したまま、大きな財布から五千円札を取り出して、手渡した。店員は、胡麻博士に大袈裟なお辞儀を繰り返した。胡麻博士は満足そうな顔をして、テーブル席に戻ってきた。
「いいものが見つかりましたよ」
胡麻博士はそう言うと、にやりと微笑んで、水色の袋を透かして、中のアザラシを見つめている。
「娘さんに……」
「ええ。きっと喜びますよ」
英治は、カップに注がれた水を一口、飲んだ。喉が乾いていたわけではない。ただ、なんとなく間がもてなかったのだ。
(情緒ね……)
英治は、胡麻博士の言う生きた情緒というものを感じてみたくなった。そういう真っさらな心で、色々なものを味わってみたくなった。
「白月浜神社に行かれるのですか?」
と英治は、脈絡もなく、尋ねた。
「ええ」
「僕も一緒に行ってもよいですか」
「行きますか」
胡麻博士は、笑った。だが、すぐにかぶりを振った。
「しかし、今日は行きません。明日にしましょう。実は長谷川東亜先生の美術館があるので、そちらに行きたいと思っていたのですよ」
「長谷川東亜先生の……」
「ご存知ですかな」
「ええ。実は、すみれさんと未空ちゃんが昨日、長谷川東亜先生のパーティーに遊びに行ったっきり、今、どこにいるのやらという状況でして……」
「ほお。すみれさんと言うと、根来警部の娘さん。未空ちゃんというと、羽黒さんの妹さんですな。それでは、お父様の方の根来さんと探偵の羽黒さんもここにいらしてるのですかな」
「いえ、二人は……」
英治は、首を横に振る。それを見て、胡麻博士は解せないと言わんばかりである。
「では、何故、よりもよって、あなたとお嬢さんお二人がこの白月浜に……?」
どういう意味だ、と英治は思った。しかし、不自然な状況であることは確かだった。
「まあ、僕なんかは、ボディーガードみたいなものですよ」
「それなのに、一人になってしまったわけですな」
と胡麻博士はおかしそうに笑った。そして、
「安心してください。あなたは一人じゃありませんよ。わたしがいます」
と言った。
(嫌だよ……)
と英治は思うと、たちまち鳥肌が立った。




