60 胡麻博士
英治は、薄暗い廊下を歩いていた。その両側には、丸い窓がついていて、そこから青い幻想的な光が差し込んでいた。無数の魚が泳いでいる。それが何という魚かは分からなかったが、銀色のイワシのような魚で、群れを成して、水槽の中を目まぐるしく回転していた。英治はそれを眺めていると、少し寂しさが紛れる気がした。
子供たちが走っていた。この廊下を行ったり来たり。この廊下は曲線を描いていて、どこへ通じているか分からぬ洞窟のようだった。それを英治は楽しく感じた。子供の頃に感じたような楽しさが、わずかに心の底から浮かび上がってきた。
英治は不思議なことに、寂しさを恐れて、このような水族館に遊びに来た癖をして、人気のないコーナーを探すように、人の密集した場所を避けていた。しかし、どこへ行っても、子供たちが走りまわり、カップルたちに行手を阻まれた。
そして、イルカショーがあるから、という向かいから来た若い母親の声を聴いて、ぼんやりしながら、その言葉がいつまでも耳に残った。イルカショーか、男一人で見るようなものではないな、当然、自分はそんなものは見にいかない、でもこうして水槽の中を歩いているより、いくらか気がまぎれるかもしれない、なにしろ座っていられるのだから今より大分楽だ、自分はイルカショーを見に行くべきだろうか、などと英治は思った。
英治は、広い水族館の中をさ迷いながら、イルカショーの会場へと向かった。案内板にしたがって、屋外に出ると、大きなプールを囲うようにして、階段状の白い席が並んでいた。すでに多くの人が座っていた。親子連れ、カップル、華やかな女子高校生たち。英治はまたも、場違いだな、と思った。
(こんなところに自分がいるのはおかしいことだ。やめようかな……)
そう思って、二階の出口から出るために、人目を避けるように足早に階段を登ろうとすると、ちょうど階段状の席の真ん中あたりからどこかで聴いたことのある味わいの深い声が響いた。
「英治さんじゃないですか!」
ぎょっとして振り返ると、そこにはアロハシャツ姿の年配の男性が一人で椅子に座っていた。白髪まじりの頭髪、顎髭に顔を囲まれ、丸眼鏡をかけた怪しげな風体のその男性。人を睨みつけるような鋭い小さな眼差しをこちらに向け、口元にはにやりと不吉な微笑みを浮かべていた。
「胡麻博士……」
その男性は、天正院大学の民俗学教授、胡麻零二博士だった。羽黒祐介も、事件の際に、お世話になることのある教授なのだった。
しかし、英治はまったくこの状況を理解できなかった。
「あの、何故、ここに……?」
「それは私の台詞ですよ。まあ、ここに座りなさい。英治さん。事情は後で聴きましょう。まずはイルカショーを楽しみましょう」
「そうですね」
と内心は胡麻博士のことをひどく気にしながら、英治はしつこく尋ねずに、胡麻博士の隣の席に腰を下ろした。胡麻博士は、イルカショーがすぐに始まらないことを知ると、ぼそりと囁いた。
「あなたもイルカがお好きで?」
「イルカ……」
英治は、胡麻博士の言葉が耳に入ってこない。あなたもイルカがお好きで、ということは、胡麻博士はイルカが好きなのだろうか。
「ええ、イルカは好きですね」
「イルカはよいものですよ。だって、彼らってとても頭がいいのです」
「はあ……」
「そんなイルカを、わたしはいつか自宅の庭の池で飼いたいのです……」
「無理ですね……」
と英治はすぐに言ってしまった。胡麻博士は、ふふふ、とまた奇妙な笑い声を漏らすと、英治の方に顔を向け、震えた声で、
「分かっていますよ……」
と言った。




