4 海鮮丼の問題
三人はホテルから出て、海岸沿いの道路を歩いた。ホテルから先ほどの道を戻っているのである。右手には賑やかな海岸が見えている。すみれは日光に当たって、肌がじりじりと熱かった。どこか涼しいところへ行きたいと思っても、木陰は少なかった。どこへ向かっているのか、考えてみると何も思い当たらない。ただ、なんとなくバス停に向かっているのだろうという共通認識が三人を支配していた。
そうして暑さに弱っているうち、白月浜海岸の中心的な場所にたどり着いた。それはバス停の近くだった。海岸が一望できる丘の上に円形の広場があり、その真ん中に、この土地の芸術家、長谷川東亜の作品であるオブジェが飾られていた。それは、ねじ曲がりながら空に向かって伸びている、角だらけの鉄塔のオブジェだった。
(変なの……)
すみれはそう思うと、麦わら帽子で日差しを防ぎ、海を眺めた。
ふと横を見ると、英治が、海水浴を楽しんでいる人々の様子を嬉しそうに眺めている。海に来たことに心から浸っている御様子だ。
すみれも英治にならって浜辺を眺めることにした。まだ四、五歳の子どもたちが裸足で走りまわっている。泥だらけになって遊ぶとはこういうことだろう。パラソルの下には、サングラスをかけて、気取った男女が寝そべっている。鍛え上げられた筋肉の男性が、そのこんがりと焼けたチョコレート色の肌を周囲に見せつけつつ、歩きまわっている。痩せた体の小柄な女子高校生たちも水着姿で、きゃっきゃと声を上げて、遊んでいる。あまりも混雑しすぎて、あまり情緒豊かな風景とも見えないが、こんなところにも情緒はあるのだ。焼けつくような浜辺の上で、人間がテーブルにこぼれた胡麻のように散らばっている。すみれはぼんやりとそれらを見つめていた。見ているうちに羽黒祐介に対する気持ちが込み上げてきて、隣にいるのが英治であることが悲しくなってきた。この海も、羽黒祐介と眺めるはずだったのに……。
気分を紛らわせようと彼女が後ろを振り返ると、未空が瞳を輝かせ、オブジェに見入り、自分の世界に浸っていた。
「お昼ごはん、何食べます?」」
と英治が尋ねてきた。すみれは振り返り、何か答えようと口を開いたが、彼はすかさず、
「僕は海鮮丼を食べたいところですけどね」
と付け足した。それが正解だと言わんばかりである。すみれは、ああ、と小さく呟いて、海鮮丼ね、と聞こえない声で言った。
「商店街の方に行けば、海鮮丼が食べられるお店が沢山あると思うんですけどね」
英治は食に向かってまっしぐらだ。すみれはしかしそれを快く思わなかった。
「まだ十時半だから、ご飯には早いよ。それに、まあ、今回の旅のメインは未空ちゃんなんだから、旅のお目当である美術館に先に行ってもいいと思う」
「ああ、美術館に……」
英治はなんだか情けない声を漏らした。英治はそもそも美術に興味がないのだ。彼は目の前の角だらけの奇妙な鉄塔を見上げた。あまり気が進まないらしい。そして、ぼそりと未練がましく、
「美術館のあたりに海鮮丼のお店、あるかな……」
と言った。
すみれは、なんだか、憐れとも思えるほどの執着心を彼に感じた。途端にこの執着心のせいで、せっかくの旅行がぶち壊しにされたような気がした。なぜもっと柔軟に考えられないの、それにそんなに海鮮丼を食べたいなら、ひとりで行けばいいじゃない、と思った。色々な感情が一度に湧き起こってきて、すみれは途端に苦しくなった。
「美術館行きのバス停はそこにありますけどね。でも、海鮮丼を食べたかったんだけどなぁ」
と不満のこもった声で英治はさらに言った。すみれは腕を組んだ。
「いいわ。そんなに言うなら、英治さんは商店街に行ったらいいんですよ。海鮮丼でも、いくら丼でも、くじら丼でも食べたらいいんですよ。お腹いっぱい食べたらいいじゃない。私たちは美術館に行くから」
「えっ、どうしちゃったですか。すみれさん」
英治は驚いて、すみれの顔をまじまじと見つめた。
「あの、僕、なにか怒らせるようなこと言いましたか?」
「海鮮丼を食べたいとか……そんなことばかり言うから。よっぽど魚介類がお好きなんですね。もういいです。大盛りにしてもらったらいいんですよ。さあ、未空ちゃん、走ろう。英治さん置いて、あのバスに駆け込もう」
そう言って、すみれはぼんやりしている未空の手を掴んで走り出した。
「えっ、ちょっと……」
英治は焦って追いかけた。
「あの、気に障ったのなら、謝りますから!」
英治の悲しい声がする。しかしすみれと未空は英治を振り切って、バス停の発車寸前のバスに駆け込んだ。ドアはすぐに閉まってしまった。そして、バスはその場から逃げ去るように走り出した。
「英治。置いてきちゃったね」
と車内の椅子に座って、未空はすみれの顔を見た。すみれもさすがに悪いことをしたな、と思った。
「そうね。可哀想なことをしたわ」
すみれが後悔のため息をつくと、未空はそれを見て、ふふんと笑った。
ふたりはバスに乗って、長谷川東亜の美術館へ向かった。