46 死体を谷底に捨てる
長谷川東亜たちは焦っている様子で、部屋に戻ってきた。一体、誰がチャイムを鳴らしたのか、周囲の視線が集まるが、東亜は何も答えなかった。東亜はじろりと死体を見つめた後、何事か執事と料理人を近くに呼び寄せた。どちらも五十を過ぎた、体格の良い、白髪の男性だった。そして、東亜は彼らに何を囁いた。
すると、執事と料理人のふたりは、急いでいる様子で、梶原の死体を担ぎ上げ、部屋から運び去ろうとし始めた。
「あっ、お、おい、何をしているんだ……」
白髪の執事は、黒川の言葉に少し振り返ると、
「分からないのですか……。事件なんか、最初からなかったことにしてしまうんですよ」
と言い放った。
この言葉に一同は騒然となった。東亜は、自分の娘が殺人を犯したのだと思って、事件そのものを隠滅してしまおうとしているのだろう。しかし、そんなことをしたら、事態が悪化することは言うまでもない。
「馬鹿なことはやめろ!」
黒川はそう言って、執筆と料理人から死体を奪い返そうとする。しかし、すかさず東亜が、黒川の後頭部をぽかりと叩いた。黒川は、ぐえっと汚い声を漏らして、床に転げ落ちた。場が白けたような、一種、滑稽な空気に包まれた。その間に、執事と料理人のふたりは死体を担ぎ上げたまま、廊下へと出て行った。そして、東亜がドアの前に立って、追手の行手を塞いだのであった。
黒川が頭を押さえながら、立ち上がる。
「なぜ、殴ったのですか」
「手が滑ったのだよ」
と、東亜は言うと、ふふふと笑った。
「あのふたりは死体をどうしようとしているのですか」
「わたしには分からないな。ただ、死体がなければ、殺人事件が起こったことは誰も証明できないだろうね」
未空は、長谷川東亜の発言に寒気を感じた。しかし、これも親心というものかもしれない。娘が殺人を犯したら、執事と料理人に、死体を運ばせるのだ。
(でも、どこへ……?)
「先生、こればっかりは駄目です……!」
乾吾は、そう言うと、ドアの前に立つ東亜を強引に床に突き倒した。東亜は悲痛な声を上げながら、床に転げ落ちた。乾吾は、ドアを開け、廊下に飛び出て、棺桶ならぬ死体を担いだ二人を、走って追いかけていった。
しかし、すでにこの階にはいないようだった。エレベーターを見ると、ちょうど、一階に降りて行くところなのが、階数ランプの明滅で分かる。乾吾は、いても立ってもいられなくなり、近くにある階段を一気に駆け下りた。この洋館のエレベーターのスピードは遅い。だから、全力で駆け下りれば、距離を一気に縮めることができる。
乾吾は一階に降りたがしかし、そこには、もぬけの殻と化したエレベーターがあるだけだった。異常な静けさである。もしかしたら、この階には降りていないのではないか、と乾吾の頭に嫌な考えが過ぎる。
(しまった!)
乾吾はそこで気付いた。そうだ。死体を処理するのなら、一階ではなく、三階の裏口から出て、底無しの谷に放り込めば良いのだ。だとしたら、エレベーターが一階に移動していたのは、追手を欺くためだ。
(なんたことだ……)
底無しの谷は、この洋館の背後にある深い谷で、ここから何かを落とすと絶対に回収できないことから、そう呼ばれている。
乾吾が、エレベーターで三階に戻り、裏庭に飛び出ると、半ば山道と化したところ、ちょうど執事と料理人が汗を拭いながら道を戻ってきたのだった。
「梶原は……」
乾吾が震えた声で尋ねると、二人は気まずそうに顔を見合わせ、背後の闇に包まれた谷をちらりと見たのだった。そこは、切り立った崖が続いている。死体はその下にあるのだろうか……。




