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37 未空、東亜を蹴る

 このパーティー会場には、先ほども述べたように現在、十数人の男女がくつろいでいる。中央の大きなテーブルを取り囲むようにして座っている人びと、窓際の席に集まっている人びとの二手に分かれている。芸術家と呼ばれるに相応しい珍妙な格好をしている人もいれば、常識的な装いの人もいる。

 部屋は暗く、琥珀色の灯りに包まれ、その部屋の壁の一面がガラス張りの窓になっているので、そこから白月浜の天の河のような夜景が、地平に広がっているのが見えている。

 未空たちが座っているあたりは、金村香苗がいる他、さまざまな男女が楽しげに談笑している。しかし、そのうちの何人かは、未空のことを気にして、ちらちらと盗み見ている。

(まだ渚って子と疑っているのかな……)

 とすみれは思った。

 しかし、触れられないのだろう、東亜が娘だと疑っていない以上は……。


「つまり、我々のやろうとしていることは常に実験なのだよ。これが正解などという絶対的なものはどこにもないのだ。私の精神と鑑賞者の精神とが、作品という象徴を通して、ぶつかり合うんだ。その時、どんな化学反応が起こり、なにが生まれ、この虚無の人生に何をもたらすのか……」

 東亜はすでに相当、酔いがまわっているらしく、すみれには意味のわからない芸術論を饒舌に語っている。

「私が心をこめて月を描いたとしても、君たちの目に映っているのは君たちの月なのだ。その意味が分かるかな。月は初めから君たちの心の中にこそあるのだ。いや、失敬。君たちは皆、一流の芸術家たちばかりだ。こんなことを語ってすまない……」

 東亜は、そう言うと黙ってしまった。そして何事かぶつぶつ唱えると、お猪口をつかんで、ぐいと一口。


「渚ぁ!」

 東亜はそう叫んで、ぐっと立ち上がると、宙を睨みつけ、何かを呟いている。そして取り憑かれているかのように、ソファーを掴み、未空に近づいてきた。

「渚じゃぁないか!よかった。こんなところにいた!」

 また抱きしめようとしてきたので、未空は慌てて、東亜の手を振り払うと思い切り、弁慶の泣き所を蹴飛ばした。東亜はぐえっと叫んでソファーに倒れ、魚のようにもがき、床に転がった。


「ああっ、先生!」

 まわりの人間が駆け寄ってきて、呻いている東亜をベッドの上に寝かせた。

「どうも君がいると先生は混乱してしまうようだ……」

 と眼鏡をかけた生真面目そうな中年男性が未空をちらりと見て言った。これって自分のせいなのだろうか、と未空は首を傾げる。

「いえ、先生は元気になったんですよ。本当に娘さんと再会できたみたいで、きっと喜んでいるんですよ」

 と金村香苗は言って笑った。


 そうなのかもしれない、とすみれは思った。東亜はそのまま寝入ってしまったが、赤ん坊のような微笑みを浮かべている。

 周囲には、やれやれ、という呆れた空気も流れていたが、多くの人は未空の行動に純粋に驚いたようだった。というのも未空は、渚ではないかと疑われているので、その渚が生きて帰ってきて父親である東亜を蹴った、という奇妙な印象となってしまったらしい。


「私、お手洗い行ってきます」

 未空は気まずくなったのか、ひょいとその場から去ろうとする。すみれは驚いて振り返ったが、もう未空は廊下に飛び出て、どこかへと駆けていってしまった。

(トイレの場所なんて知らないくせに……)

 すみれは、慌てて廊下に出て、

「未空ちゃーん」

 と叫んだがその声は、誰もいない廊下を虚しく木霊するのみだった。

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