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35 長谷川東亜の涙

「渚、ここで話すのはなんだから、私の部屋に来なさい」

 と東亜は言った。未空が一人で連れていかれそうになったので、慌てて、すみれと薫は付いていった。四人はパーティーの会場から少し離れた部屋に移動した。そこは東亜のアトリエのようだった。所狭しと作品が並ぶ中に、描きかけの油絵があった。右側には、大きな窓が並んでいて、そこから街と海の夜景が見渡せた。

「そこに座りなさい」

 と東亜は言った。未空は困った顔をして、頭を描きながら、目の前の小さな椅子に座った。

 東亜は興奮した様子で、煙草に火をつけると、それを味わい、しばらく物想いに耽った。

「生きていて良かった……」

 東亜はぼそりとそう言うと、そっと目頭を押さえた。涙を流しているらしい。なんと声をかけてよいのか分からないらしく、未空は困り顔ですみれをちらりと見た。すみれも、どう答えてよいか分からず、薫の顔を見た。薫は無表情だった。


「あの……」

 未空は勇気を振り絞って、東亜に話しかけた。東亜は、はっとした顔で未空を見つめる。

「わたし、渚じゃありません。未空です……」

「お前もそんなことを言うのか……」

 東亜は、がっかりした様子で、首を横に振ると、

「君は渚だよ。私の娘だ。帰ってきてくれたんだよ。そうだろ?」

 と熱を帯びた声で言った。

「渚じゃありません。わたし、羽黒未空です。画家の……」

「羽黒未空……、じゃあ、あの羽黒未空。なんだかアフリカっぽい絵を描いている」

「そうそうそう」

「その正体が渚だったのか」

「違う違う違う」

 未空は呪文を唱えるように否定しながら、首を横に振った。

「わたしと、先生の娘さんの渚ちゃんは別人です」

「別人?」

 東亜は信じられないらしく、また煙草を咥え、しばらく考えた。

「別人、だというのか……」


 未空は頷いた。そして自分が山形県の出身で、父親が警察官であること、兄が私立探偵で、今は秩父に住んでいることなどをあまり上手ではない説明で話した。

 東亜は煙草を吸いながら、体を揺すり、静かに聞いていたが、だんだん、気落ちしてきたのか、動かなくなった。

「要するに、渚ではないと……」

「そうです!」

「うん……」

 東亜は悲しくなったのか、静かにうつむいて煙草を吸っている。それを灰皿に押し付けると、未空の瞳をじっと覗き込んで、

「それにしても似ている……」

 と呟いた。

「でも、渚ちゃんじゃないんです」

「それはもう分かった。でも、本当に似ているんじゃ……」

 と東亜はしみじみと語り、立ち上がって、窓の外を眺めた。

「やっぱり、渚はまだ月におるのかなぁ……」

 悲しい気持ちが隠せないのか、東亜はしばらく窓の外を眺めて黙っている。ふうとため息を吐くと、振り返って、

「みんなの元に行こうか……」

 と言った。


「羽黒未空さんとは素晴らしいお方が遊びに来てくれたものだ。あなたの絵を拝見したことがありますよ」

 と東亜は言うと、にいっと微笑んだ。それはちょうどジャズピアニストのホレス・シルヴァーの微笑みに似ていた。すみれは咄嗟にそう思った。

「先生とお会いできて、嬉しいです」

 と未空は嬉しそうに言って、ぴょんぴょん飛び跳ねた。すみれは後ろからその様子を見ていて、まだ子供みたいだな、と思った。

「私も嬉しいよ、渚……」

「未空です」

「そうだったね……」

 本当はまだ渚だと思っているんじゃないか? とすみれは東亜の横顔を見ながら思った。

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