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32 旅館の死者

 零時を過ぎても、羽黒祐介は眠れなかった。根来のいびきがうるさかったからではない。根来のいびきはいつの間にか止んでいた。顔面を枕につけて、うつ伏せになっているからだ。その代わり、時々、苦しげなうなり声が上がる。二本の赤松のような太い足が、祐介の敷き布団に侵入してきて、下半分を支配している。祐介はしたがって、斜めに寝ている。

 暗い室内には、提灯みたいな洒落たデザインのスタンドライトが赤々と灯って、天井に不気味な陰影を作り出している。祐介は気分を紛らわせようとスタンドライトに手を近づけ、狐の影をつくっていた。

 そうした子供じみたことをしていると、眠気が襲ってくるのだが、その度にかえって神経が鋭くなってきて、結局、目が冴えてしまう。

(眠れない……)

 

 祐介はトイレに行こうと思った。立ち上がり、浴衣の乱れを整えると、部屋に付いているトイレに入った。しかしそこはひどく狭く、古かったので、浴場の隣にある男子トイレに行こうと思い直した。就寝前に立ち寄った際には、そこは最近リフォームしたものらしく、非常に清潔なトイレだった。

 祐介は、ふらふらと廊下に歩み出て、スリッパでペシペシ、足音を立てながら歩いた。眠いので足がふらつき、音が鳴ってしまうのだ。その音が静かな廊下の暗闇の中で異様に響いて感じられた。

 祐介が、用を済ませ、部屋に戻ろうとした時、とある客室のドアの奥から苦しげな男性の声が響いてきた。もがいているようである。彼は誰かに助けを求めようとしているのか、なにかを叫んでいる。ゴトッとものが倒れる音がする。しかし、そうした声や物音はすぐにぴたりと止んでしまった。祐介は、おや、と思った。これはただ事ではない、もしかしたら、病人がいるのかもしれない、あるいは事件か、などと祐介は思って、ノックをした。返事はない。

 祐介はドアを開けようとした。ところが内側から鍵がかかっていて開かない。

(これは、もしや事件か……)

 祐介は、急いで自分の部屋に戻ると、根来を叩き起こした。

「根来さん。起きてください」

「すみりぇ……」

「二つ隣の部屋から、苦しげな声が聞こえてきまして……」

「声……」

「事件です」

「事件だと!」

 さすがは鬼警部である。先ほどで熟睡していたくせに、事件という言葉に反応し、すぐさま跳び上がるようにして起きた。


「どこだ? 被害者ガイシャは?」

「こっちです」

 実際には事件なのか、事故なのか、たたの寝言なのかもわからないのに、二人はそうと決めつけると、部屋から飛び出し、苦しげな声のした部屋のドアの前に駆けつけた。

 

「ここを開けろ!」

 根来はドアを激しく叩いた。祐介は、旅館が揺れているような錯覚に陥る。根来は、異変を確信すると、すぐに体当たりをはじめて、ドアを打ち破ろうとした。祐介は、これで自分の勘違いだったら大ごとになるな、と嫌な予感がした。

「根来さん」

「どうした?」

「僕の聞き違いかもしれません。まずは、ご主人を呼んでみては……」

「そんなことしていられるか!」

 根来を止めようとしたが無駄だったらしく、根来は何度もドアを体当たりした。瞬く間に、ドアは打ち破られて、開け放たれた。根来は室内に駆け込み、祐介も急いで室内に入った。

 祐介が室内をよく見ると、スタンドライトの灯りに照らされ、三十代ぐらいの男性が、布団から上半身を飛び出させた状態で、泡を吐いて倒れているのが見えた。

(本当に事件だった……)

 と祐介は思った。

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