2 根来すみれ
「降ります!」
根来すみれはそう叫ぶと、忙しない足取りで、路線バスから飛び降りた。
そこはだだっ広い車道が通っており、片側には海岸が広がり、反対側には土産物屋と純白のホテルがいくつも連なっているバス停だった。
潮の香りを嗅ぐと、すみれは嬉しくなって駆け出した。香りが身体中に沁み渡るようだ。この先に海岸があるのだろう。車酔いの吐き気が残っていたが、すみれはリゾートの熱気を感じて興奮してきていた。
彼女は車道を横断し、目の前の一メートル程度の石段の上に、ひょいとよじ登り、潮風に吹かれる中、海岸を眺望した。
前方に展開する、白い浜辺の上には、水着の人々の黒い影が粒のように広がり、それは海岸の彼方まで続いていた。宝石のように光り輝く海上には、赤や黄色のヨットがいくつも漂い、それを包み込む青い空には、白雲が膨らみをもって天高く立ち昇っていて見事だった。遥か高みから、太陽の純粋な光が降り注いでいる。目に映るものすべてが強い光を放って眩しく、すみれはそれを偉大な光景だと感じた。
(ああっ!)
とすみれは心の中で感動の声を上げた。
(海だ、海なんだ……)
すみれが育った群馬県前橋市に海はない。そのせいか、すみれは子供の頃から海に憧れを抱いていた。
今、こうして海の見える石段の上に立つと、ノスタルジーのような、ロマンチックな気持ちが込み上げてくる。ああ、自分は今、海を目の前にしているんだ、もしかして自分は人魚姫になれるんじゃないか、という幼児期の夢想と現在の爽やかな感覚とが入り混ざってゆき、自分の心を満たしてゆく。過去の喜びや悲しみがふつふつと浮かんできて、その感慨は海の柔らかな光と一体になって、すみれを感激させた。
今年二十五歳になる、すみれは、青空を背に石段の上に立って、潮風にそよがれている。その姿はよく絵になっていた。
彼女は、太陽の眩しい光を受けて、まどろんでいるかのように優しげな眼差しをさらに細めた。色白な素肌がほんのりと赤らむ。茶髪のふんわりとしたショートカットが風になびくのを、麦わら帽子でそっと押さえた。白いロングスカートが風に膨らむ。そして子供のようにはしゃぐ心が、彼女の柔らかな唇に偽りのない微笑みを作り出した。
浮世絵の美人のような見た目になっているのかもしれない、と根拠のない自信が突如として、すみれの心中に湧き起こってきた。この時ばかりは、いつもの自己嫌悪と羞恥心はどこか遠くに行ってしまったようだった。
(よし、こうなったら、砂浜を走ろう……)
すみれが石段から浜辺に飛び降りようとすると、後ろから声がした。
「すみれさん。砂だらけになってしまいますよ」
と、いかにも心配そうなことを言うのは、浅黒い肌で体格もよく、眉のかっちりと太い一見頼もしそうなこの男。室生英治。しかし、彼は実際には頼りない探偵助手なのだった。
「いいじゃない。ちょっとぐらい……」
「駄目ですよ。砂だらけでホテルには行けないでしょう」
実は、根来すみれは群馬県警の鬼警部の娘。そして、この室生英治は池袋にある羽黒探偵事務所の探偵助手。では、ふたりの関係はというと、少しややこしいが、この鬼警部と私立探偵のつながりなのである。すみれからみると英治は、父親の知り合いの探偵のその助手なのである。すみれの父親とその探偵は、群馬県で起きたある事件の捜査で知り合った。といっても、すみれと英治のふたりは捜査に来たのではない。
「海に来たのが嬉しいのは分かりますけど。そんなところに乗らないでください」
と英治が疲れているらしき声を出した。
英治の後ろにもうひとり少女が立っていた。黒髪のショートカットが潮風になびいている。きょろりとした美しい瞳の小柄な少女。その表情は幼な子のようにあどけないくせに、Tシャツの胸元は小高く膨らんでいる。彼女はもう二十二歳の画家なのだった。
名前は羽黒未空という。探偵の妹だった。
「ふたりとも、早くいこうよ」
と未空はふたりを急かした。
(そうだ、今日は未空ちゃんがメインなんだ)
とすみれは思った。
ここは福島県にある白月浜町。
町内には、海水浴場である白浜に沿って高級なホテルがいくつも並んでいる。市街には温泉が湧いている。さらには水族館や遊園地まであるという有数の観光地である。それでいて、全国的にはあまり知られていないところで、俗に言う、穴場スポットなのだった。また付近には漁港があり、毎日、大量の新鮮な魚介類が水揚げされている。また、芸術家が多く住んでいて、美術館があることでも有名である。
この港町には、画家である羽黒未空が愛してやまない芸術家の長谷川東亜の自宅である洋館があり、彼の美術館もあるのだ。
この夏、美術館で特別展を開催するということで、未空がこの港町に観光に来たがっていた。兄の羽黒祐介は、この子供っぽい性格の妹がひとりで旅行をするのはなんとなく心配で、自分の助手である室生英治に同行を頼んだ。しかし、警戒心のない妹が、自分の助手とはいえ、男とふたり旅をするのは兄として余計に心配にもなってきて、根来すみれにも相談したら、すみれも来てくれることになったのだった。
実を言えば、根来すみれは、雑誌「サスペンス百景」の記事を書いているルポライターだった。すみれは、この街のことを記事しようと思っていた。
ちなみに室生英治がこの旅行に同行したのは、海鮮料理を食べたかっただけである。
「ひとまず、ホテルに向かおう……」
と英治はスーツケースを引っ張って、ホテルに向かって歩き始めた。
「荷物を預けなくちゃね」
と彼はぼそりと言った。
すみれは石段から降りて、彼の後ろについて歩いた。