1 満月の美しい夜
(君の歌声が聞こえてきそうな月夜だ……)
と青年が心の中で呟いた。
その青年の黒髪は風にそよぎ、色白の素肌は外灯に照らし出されている。彼は、人目を引くほどの美しさをもった鼻筋の通っている端正な顔つきで、夜空の満月を見つめていた。二十代中頃の彼のふたつの瞳の奥には、深い憂いが揺らめているのだった。
(あの夜も、僕は君とふたりで、こんな満月の下に立っていた……)
青年は、悲しくなり視線を地面に落とした。それから青年は、彼方に広がる漆黒の海を見つめて、深いため息を吐いた。
(あれから、君はどこへ行ってしまったのだろう。君の姿が見えなくなってから、もう三年の月日が経ってしまったけれど……)
青年の胸はざわめくようだった。
(こうして静かな月夜になると、君の歌声がどこからか聞こえてきそうな気がする。君の優しい歌声、君の弾くギターの音色、僕は懐かしくなって、涙が出そうになる……。でも、あの歌声はいつも幻のように消えてしまう……)
青年はそう思うと、漆黒の海から視線を外し、深い悲しみを込めた瞳で、足元を見つめた。
中世ヨーロッパの城郭かと見まごうような外観の洋館が、白月浜町の丘の上にそびえ建っている。その洋館を囲むように広がっている西洋式庭園の円形の広場に備え付けられたベンチ、それが現在、青年が座っている場所である。
そのベンチに座ると、昼間ならば長閑な白月浜町の家並み、蝋燭のような白い展望台、モダンな水族館の黄色い建物、その向こうに無限のように広がってみえる青い海が一望できるところなのだが、今は真夜中、闇の帳に覆い隠され、墨をぬりたくったような景色が広がっているばかりである。
庭園を見まわすと、さまざまな銅像がずらりと並べられ、薔薇をはじめとする花々が花壇にところ狭しと植えられている様は美しかった。
青年の耳に、低い波風の響きが感じられている。海から離れているこの場所は、静寂に取り残されたようなところだから、これは幻聴であるに違いない、と青年は思った。
「こんな時間に何をしているのかね」
と背後から声が聞こえて、青年が振り返ると、そこに茶色いスーツ姿の長身の男が立っていた。
炎のように逆立てた黒髪に、黒い口髭を生やした怪しげな人物、おどろおどろしく驚いたような表情を浮かべて、こちらを見つめているその男、芸術家の長谷川東亜である。
「君は、満月の夜になると、よくここへ来るね。あんまり暗い顔をして出て行ったから、ちと心配になってな……」
青年は悩んだ。しばらく黙って東亜の顔を見つめていたが、
「先生、僕はお嬢さんのことを思い出していたんです」
青年は素直に、自分の気持ちを白状した。
「ふん。やっぱり、そうか。そんな顔をしておる。しかし、余計な感傷に浸るでないぞ。渚は今、あの月のどこかにいるのだ。我々は、あの月と交信しさえすれば、いつでも渚と心を通わすことができるのさ……」
「月と交信……。しかし僕にはそれがなんとも……」
青年はそう言いかけて、目の前の芸術家から視線を逸らす。
「分からんのかね。君も芸術家の端くれだろう。ほら、月光を全身で感じるのだよ。こんな夜に満月のエネルギーが、地球に一杯降り注いでいるはずだからの」
そう言うと、長谷川東亜はいかにも不機嫌そうな表情を浮かべ、咳払いをすると踵を返して、洋館に戻っていった。
青年は、東亜の大きな背中が建物の影に隠れて見えなくなってから、とてもそんな話は信じられない、とあらためて強く思い直した。そうでありながらも、長谷川東亜の生死の分からない娘と連絡を取ろうと切実になる気持ちに、強烈なシンパシーを感じているのだった。
再びの静寂の中だった。青年は、またこみ上げてきた孤独感を噛み締めて、そっと月を見上げた。
(君はもうこの世にいないのかな……。それとも先生が言うように月へと旅立ったのか……)
青年は心の中で呟いた。しかしその声は誰に届かない、届かない叫びは心の中に虚しく反響する。彼の心の中でわだかまっている。
……青年の胸中に、三年前の妖しい満月が浮かび、今も我が身に降りかかるような光を放っていた。