16 英治の部屋
英治が、すみれや未空と白月浜グランドホテルに戻ってきたのは、午後三時をまわった頃であった。英治はまだぼんやりと薫のことを思い出していたが、それだけでなく、すみれのことも僅かに考えて、気まずく思っていた。もしかしたら、すみれが怒ったのは、自分を愛するが故の感情だったのではないか、と思い込むと、どうもその方向にしか頭が働かなくなってしまうのが人間というものである。
英治は、フロントで鍵を受け取り、自分の部屋へと急いだ。すみれたちは七階の部屋だそうだが、英治だけは八階の部屋だった。
薄暗いエレベーターの中で、すみれはぼそりと英治に言った。
「わたしたち、六時に出かける用があるから、英治さんはひとりでホテルのレストランにでもいって、ご飯を食べてください」
「え、ふたりでどこへ?」
英治は驚いて、すみれの顔を見た。
「実はわたしたち、長谷川東亜先生のパーティーに招かれたんです」
「え、長谷川東亜先生の?」
英治はまったく事情が呑み込めない。すると、エレベーターがチンと鳴って、止まった。
「あ、もう、七階に着きましたから、じゃあ、また後で」
すみれと未空は、ドアが開くと、あまり事情を説明せずにエレベーターをさっさと降りてしまった。英治は狐につままれた気持ちでぼんやりとひとり立ち尽くした。すぐにエレベーターは動き出し、八階に到着してドアが開いた。
薄暗い廊下には、クリーム色の間接照明がともっていた。英治は819号室を探した。すぐにドアを見つけて、鍵を挿し込み、ドアを開ける。室内には短い廊下があって、左手には浴室とトイレがあるようだ。廊下の先に白いシーツのかかった清潔なベッドが置かれている。その隣には机があり、机上にはポットが置かれている。薄型テレビのスクリーンが壁にかかっている。その奥には、木造りの円形のテーブルと紺色のソファーが並び、その向こうには大きな窓があった。窓の外は、やはり果てしなく青い海が広がっている。
「上等な部屋だ」
と英治は声に出していった。ひとりで行動する機会が多くなると、自然に独り言が多くなる。
英治は預けていた荷物がソファーに置かれているのを確認した。その隣に座って、ぼんやりと考える。
「なんだか、わからないが、不思議なことばかり起こっている」
と、また口に出した。
なにが起きているのだろうか。英治は、今日あったことを思い出す。浜辺の見える広場で、すみれさんに理由も分からず怒られ、置いてきぼりにされ、鬱々と商店街をひとりで彷徨い、そこで高杉薫という舞台役者に出会って一緒に海鮮丼を食べ、白月浜タワーの展望台で行方不明になった長谷川東亜の娘の話を聞かされ、すみれや未空と再会し和解を果たし、こうしてホテルに戻ってきたのだが、すみれはどういうわけか、未空と長谷川東亜のパーティーに行くと言っているのである。
確かに奇妙である。自分には理解できないことが多すぎる気がする。英治は、ソファーに座ったまま、丸テーブルの上に置かれたクッキーをひとつ齧りながら、ほとんど瞑想的に回想した。
もっと、不思議なことは、まだ三時なので、今日はまだ九時間もあるということである。それが、やけに妙に感じられた。だって、短い間にあまりにも多くのことが起こりすぎているのであるから。
英治は、気分を変えようと思って、机の上のリモコンを取り、テレビの電源をつけた。
画面の中では、ふたりの漫才師が並んで、カメラの方を向いている。どうやら、漫才の新人を発掘するオーディション番組らしかった。
『昨日ね』
『なにかあったのか』
『あったんですよ』
『なにが』
『交差点をね、曲がろうとしたら』
『曲がらなかった……』
『いや、曲がれたんですよ』
『曲がれたのか』
『ええ』
『そりゃ良かったな』
『……』
『……』
漫才師はちょっと困った顔でお互いに見つめあっている。気まずい時間が流れている。どうやらネタを忘れたらしい。そして、制限時間の終了を告げるベルが鳴り、ふたりはいかにもがっかりした様子で舞台を降りていた。
(こういう業種の人も大変なんだな……)
英治はそう思いながら、クッキーを口に放り込んだ。
背の高い司会者が袖から現れて『いやぁ、とんでもない漫才だったなあ。テレビでやるような漫才じゃないね。それでは、点数。15点。惜しかったねぇ。漫才オーディション番組「マンザイ天国アンド地獄」はまだまだ続きます。夢の十日間連続生放送ですからね。それでは、皆さん、明日もこの時間にお会いしましょう』といって、手を振ると、愉快な音楽が流れ、歯磨き粉のCMに切り替わった。
「こんな番組、誰が見るんだ……」
英治は不満を言うと、テレビの電源を消した。




