15 電子レンジの役目
すみれと未空のふたりが、店先に立って話し合っている英治と女性の死角へと忍び寄り、ドアの影にそっと身を隠し、耳をそばだてると、英治はしきりに自分の頭を撫でながら、こんなことを話しているのだった。
「……いえ、僕の方こそ、あなたに会えて本当に良かったですよ。鮮度を失った刺身のようだった僕の心がいまや、焼き魚みたいにぽっぽと火照ってきたみたいなんです。そういう意味では、あなたは電子レンジの役目を果たしてくれたんですね。あなたの方こそ複雑な事情がおありのようですが、あまり無理なさらずに、これからも頑張ってください。またいつか、あなたと再会できたらいいですね」
すると、女性はにっこりと笑って、
「そうですか。ふふ。なんだか、あなたの比喩のセンスって一種独特ですね。まあ、いいや。再会しようというのなら、いつかと言わず、すぐに会いましょうか」
「え、すぐにですか」
「こちらこそ、あなたとは気が合いそうです。すでに永遠の腐れ縁になる予感さえしていますよ。白月浜グランドホテルにお泊りなんでしょう? 実はわたしもあそこに宿泊しているんです」
「えっ、そうなんですか?」
すみれは、なんだなんだ、この二流の恋愛小説みたいな展開は、と思った。どうやら本当に英治の身に運命的な出会いが訪れたものらしい。それは神様からのプレゼントなのか、すみれは羨ましく思った。
(わたしが祐介さんとの恋愛が進展せずに悩んでいるときに、よりによって英治さんがこんな幸せをつかむなんて……。いや、ちょっとまって、そもそも、英治さんには赤沼麗華っていう恋人がいたはずじゃ。どうなっているのだ、こりゃ……)
とすみれの心中には混乱の嵐が吹き荒れていた。
「そうなのですか。それなら、今晩あたり、ホテルでお会いするかもしれませんね」
「見かけたら遠慮なく話しかけてくださいね。わたし、どうせ暇だから。逆にわたしの方からも話しかけるかも」
「楽しみにしています」
「じゃあ、また」
女性はそういうと、手を振って、英治に背中を向け、商店街をさっさと歩き始めた。英治はしばらく、その後ろ姿をじっと眺めていた。
「不思議な人だなぁ」
と英治はぼそりと呟くと、そのまま薫とは反対の方向の人混みの中へと入っていった。
「ねぇ、英治、あの人とどういう関係なの?」
未空はいかにも不機嫌な様子で、すみれを見上げた。すみれは未空の気持ちを察した。しかし、それについてはあまり触れずに、
「さあ、なんなんだろうね。恋人でもできたのかな。でも、あんまり、あからさまに詮索しちゃ駄目だよ。あの人、結構、デリケートなんだから。なんにせよ、あまり落ち込んでなさそうでよかったわ」
と、すみれはほっとして、膨らんだ胸をそっと撫で下ろし、溜息をついた。
「さあ、あいつと仲直りしようか」
すみれは、そう言うと、人混みを掻き分けて進んでいった。そして、土産物の饅頭を見つめている英治の背中をぽんと叩いた。
「わっ、びっくりした。あ、すみれさん……」
英治は驚いた顔ですみれを見つめると、頭をぽりぽり掻いて、気まずそうにすみれからちょっと離れた。すみれは自分のこと軽蔑しているに違いないと思って、慌てた。
「さっきはごめんなさい」
「いや、いいんですよ。もう、それは。それで、あの、美術館にはもう行ったんですか」
英治は、なにやら、焦っているような早口で言った。すみれは、その様子を見て、軽蔑とは異なる遠慮のような感情を読み取り、妙な気持ちになった。
「行きました」
「そりゃ、よかった。いや、僕のことはいいんです。もう、海鮮丼も食べましたし、ひとりで寂しくなかったかというと嘘になりますが、結構、観光を楽しめました」
そう言って、英治は無理に笑顔をつくる。
(でも、ひとりではなかった……)
とすみれは思ったが、それについては追求しなかった。あの人は誰なのか、訊いても良いと思うのだが、なんだか、妙に恋愛問題を意識してしまっていて、上手く訊けそうもなかった。冷静に考えると、英治が誰に恋していようとすみれには関係がない話だった。それなのに、こんなに気にしているのはつまり、単なる好奇心なのだ。すみれはそう考えて、あまり深く詮索せず、そっとしておこうと思った。
「じゃあ、ホテルにでも戻ろうか」
と英治が言うと、すみれは、
「でも、わたしたち、まだお昼ご飯食べてないから……」
と言った。
英治は笑った。実は、英治も海鮮丼を並盛りにしてしまったせいで、すでにお腹が空いていた。
「じゃあ、三人で、海鮮丼食べにいこうか」
と英治は笑って言った。




