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11 中トロの味

 英治は、(どんぶり)に盛られた中トロの分厚い一切れを、箸でつまみ、濃口の醤油にくぐらせ、口に運んだ。新鮮な魚の脂身が舌の上で甘くとろけておどるようだった。

(美味しい……)

 薄暗く曇っていた英治の心に光がさしたようだ。落ち込んでいるときはなにか美味しいものを食べると、少しばかり心が暖まるものである。

 続いて、頬張った飯も酢がよく効いていて美味しかった。イクラを酢飯にのせて一口。しばらくの間、英治は海鮮丼に夢中になった。

 こうして黙々と食事を続けたが、英治は、目の前の薫を放ったらかしにしているような、何か話しかけなくてはいけないような気が急にしてきて、薫の顔を見た。

「でも、長谷川東亜先生のお知り合いとは羨ましいですね」


「あ、ほう、でふか」

 薫は、米を口いっぱいに頬張り、眉をひそめて、静かに味わっていた。完全に今それどころではない様子である。しかし、英治も一度話しかけてしまった以上はここで打ち切るのもかえって気まずいので、なんとか、もう少し話題を広げようと思った。

「いえ、実は一緒に旅行している女の子が、長谷川東亜先生のファンなんですよ」

「そうなんですか。あなたの恋人がね……」

「いや、だから、違いますよ。そもそも今、三人で旅行しているんです」

「ふむ」

「僕と口論になったのは、すみれさんっていう女性で、長谷川東亜先生のファンなのは未空ちゃんって子の方なんです」

「ええ……。女性ふたりと旅行? それって三角関係じゃないですか」

 なんてことしてやがるんだ、とでもいい出しそうに怪訝な目つきで、薫は英治の顔を見た。

「いや、だから、違いますって……」

 英治は誤魔化そうとして笑った。そして、英治は旅行に至るまでの出来事を順に話した。

 

「それじゃ、なんですか。本当に恋人と喧嘩したわけじゃないんですか」

「そうですよ。だから、何度も言っているでしょう」

 英治はやれやれと思った。ようやく話が通じたようだった。目の前の薫はすました顔をしていて、格好つけているが、とんでもない決めつけをする天然の人のようである。それはそれで好ましかった。英治がことの流れを細かく説明すると、薫は煎茶をすすって、頷いた。

「まあ、そういうこともありますよ。でも、落ち込むほどの話じゃないじゃないですか。その女性はきっとあなたにちょっと甘えたかったんですよ」

「そんなものですかね」

「つまり、その女性はきっと、なにかに悩んでいるのですよ」

「悩み……」

「それでちょっと堪えられなくなって、あなたに当たってしまった、それだけのことですよ」

「でも、悩んでいることなんて、あるかな……」

「ええ。人は誰しも悩みを抱えているものですよ。たとえば、仕事が上手くいっていないとか。人に言えない病気とか。あるいは恋の悩み……」


 英治は、それを聞いてぼんやりと、もしかして、すみれさんは僕のことが好きなのかな、それで僕が冷たく接したので傷つき、怒ったのかな、と思った。すぐさま、いやいや、そんなはずはない、と思い直したが、英治はそのことが気になって仕方なくなってしまった。

 もし、そうだとすると、それはパンドラの箱のように感じられる。あるいはエデンの園で禁断の果実を食べてしまったような……。

(なにを馬鹿な……)

 英治は慌てて、妄想を断ち切ったが、なんだか、脳裏にべったりとその印象が焼き付いてしまった気がした。


「恋の悩み、ね……」

 英治には、しかし、赤沼麗華という愛している女性がいるのだった。

 英治が、その麗華と知り合ったのは、学生の彼女がある依頼をもって、羽黒探偵事務所に駆け込んできたことがきっかけだった。

 英治は、麗華の瞳がもつ奥深い悲しみに惹かれて、その日から夜も眠れなくなった。

 その依頼はすぐに解決したが、その後、群馬県にある赤沼家の邸宅で、陰惨な殺人事件が起こった。赤沼家の当主が、雪に囲まれたアトリエで何者かに喉を掻き切られて、死んでいたのだ。

 この事件が起こる数日前、赤沼麗華は、事件の予兆を感じて、名探偵の羽黒祐介に相談をもちかけていた。ここで英治は赤沼麗華と再会した。そして、赤沼の事件は羽黒祐介の手によって見事、解決した。

 英治は自分の気持ちを告げられないまま彼女と別れたのだった。(「赤沼家の殺人」を参照されたし)


 英治は最近、また赤沼麗華とふたりで会うようになった。それは恋人のような付き合い方で、彼は事あるごとに自分の気持ちを麗華に少しずつ告げてきた。しかし、麗華の答えはいつまでも曖昧だった。

 他の人には上手くいっているように思われているが、英治の目には、赤沼家を立て直すことに必死になっていて、もはや恋愛どころではなく、したがって、自分のことも眼中にない麗華の姿が映っていた。

 それと同時に、英治は、麗華が背負っている赤沼家の家柄の重さと、それと比べることもできない、羽黒探偵事務所の助手、という自分の頼りなさを感じていた。あまり身分に差がつきすぎていて、いよいよこの関係も限界に達しているのではないだろうか、と英治は夜になると不安を感じるのだった。

 

「可能性はありますよ」

「そう、なのかもしれませんね……」

 英治は頷いた。色々考えているうちに、食事どころではなくなって、なんだか、海鮮丼の中トロの味もどこかに消えてしまった。

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