10 高杉薫
「いえ、違うんです。失恋とかそんなものではありません。ただ、一緒に旅行していた女性を怒らせてしまいましてね。こうして、ひとりになってしまったんです」
と英治は慌てて、誤解を解こうとする。
「いや、お兄さん」
「はい?」
「世間では、それを失恋というのですよ……」
「いや、だから違いますって」
英治は首を横に振った。この女性は、どうしても失恋だと思い込みたいのか、とさえ思えてくる。
「じゃあ、あなたの言うことを信じます。お友達だったのですね。それで、おひとりで、こんなところで食事をしているわけですか。寂しいものですね。ところで何か注文しましたか」
「海鮮丼を……」
「良い選択だ。わたしもそれにしましょう。あの、すいません」
その女性は、近くを通りがかった女性店員に話しかけた。
「海鮮丼をひとつ」
「ええ。海鮮丼ですね。今なら大盛にもできますよ」
「ええ。もちろん。大盛で」
英治は目の前の女性を恨めし気な目で見た。英治は海鮮丼を並盛にしてしまったことを今更ながら後悔していたのだ。女性は店員から煎茶を受け取った。
「それで、お兄さん、名前、なんていうんです」
「僕ですか。僕は室生英治といいます」
「ムローエージ?」
「ええ。奈良の室生寺と同じムロウ、エイジは英語の英に治める、と書きます」
「室生寺というところをよく知らないのですが……」
「有名なお寺なんですけどね。あとは文豪の室生犀星のムロウも同じ字ですが……」
「その方のこともよく知らないなあ。お兄さん、ずいぶん変わった名前をしているんですね」
あなたが室生寺や室生犀星を知らないだけだろう、という気もしたが、初対面であるし、いらないことは言えない。英治は不満を感じながら煎茶を一口すすった。
「そういう、あなたの名前はなんて仰るのです」
「わたしですか。わたしは高杉薫。しがない舞台役者ですよ」
「すると、有名な方ですか」
「別にわたしは有名な人間ではありません。知り合いには有名な芸術家が多いんですけどね。今日も、芸術家の長谷川東亜先生のパーティーにお呼ばれして、この白月浜にやってきたんです。で、あなたは何をされている方なんですか」
「僕は探偵助手をしています」
「ほお。それは興味深い。実は今年の秋に探偵小説が原作のお芝居をすることになっているんですよ。探偵って実際、どんな仕事内容なのか、是非、教えてほしいものですね」
「いや、僕なんて、何も大したことはしていないんです。うちの探偵さんがとても優秀なおかげで、助手の僕はいてもいなくても良いような状況なんです」
これが謙遜ではなく、事実であることが英治は悲しかった。
「そう、それは悲しい状況ですね。まあ、努力することですね。人間ができることといったら、最終的には努力しかないんです。ふん。そうですか。すると、あなたはワトソン君というわけですね」
薫は俯き加減に、何度か感慨深げに頷き、顔を上げた。
「話は戻りますが、恋人とはどんなことで喧嘩になったんですか」
全然、僕の話、信じていないじゃないか、と英治は不快に思った。それに、ずいぶん、根掘り葉掘り聞いてくる人だな、こういう人とは相性が悪いんだよな、と心の中で目の前の女性を拒み続けていた。
「おふたりさん、海鮮丼ですよ」
とエプロン姿の店員が笑顔をつくりつつ、お盆に海鮮丼を二つ乗せて運んできた。
薫は、マグロ、サーモン、ホタテ、イカ、真鯛、海老といった新鮮な海産物の刺身が幾重にも重なって、照りかがやいている海鮮丼を眺めながら、明るい声で言った。
「さあ、気分転換ですよ。海鮮丼を食べて、恋人のことはこれっきり忘れましょう」
「だから違うって……」
英治は苦笑した。そして、会話をしているうちに気持ちが安らいでいっていることに気づいたのだった。




